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【入院対策】転院に関する適切な判断とは

父が10月末に入院し、早4カ月が経過しつつある。2度の転院を経て、3つの目の病院に入院中の父を見舞う中で思うことを書きたいと思います。今後こういうケースに遭遇する方のためにも、何より過去の事実を整理する中で自分の判断や自分の行動に何か間違いがなかったのか、自分を責めるつもりも医師や病院を責めるつもりもないですが、整理したいと思います。

■10月中旬
81歳の父が春先から脚が弱くなり、気持ちが弱くなったことを心配した自分は月に1度程度の実家での在宅ワークをしていました。そのときの父は脚は弱いものの、食欲は旺盛で元気そのものでした。80を過ぎているので、若干の会話スピードの遅さは気になるものの、認知機能に著しい低下は感じられませんでした。
■10月下旬
これは後から知ったことですが、私が実家を去った後に父は脚のむくみを訴えて、ある金曜日にかかりつけの整形外科ならびに内科を受診したということでした。その際、脚のむくみに対して医師からは利尿剤を渡すので、自宅で様子を見てくださいということでした。母も77歳と高齢で、歩きに難を抱えている父を介護するのは難しいと考えて、入院させてもらえないかと相談したものの、記載のとおり自宅で様子見という判断であったということでした。
★反省1、母から父の状態を連絡をもらえるような関係性を私が作れていなかったこと。また、とりあえず利尿剤で様子見という簡易な処置・対応を受け入れたこと。

■10月末
月曜日になり、父は自宅外の掃除をするために庭に出てそうですが、なかなか戻ってこない父を心配した母が様子を見に行くと、座り込んだ父がいたということでした。
火曜日の未明に、父はトイレのために起きたものの、動けずに倒れてしまったということでした。ただ、母は夜型人間だったので、未明の出来事にも気付くことができて、父の様子に気付いて寄り添うことができたということでしたが、父の意識ははっきりしていたため、父から救急車は呼ばないでほしいということで数時間も起き上がるために無理をしていたということでした。結果的に8時過ぎに救急車を呼び、地域では比較的大きめな総合病院に急性期の患者として入院しました。
★反省2、身体が思うように動かないという時点で脳梗塞を疑って、すぐに救急車を呼ぶべきだったこと。また、本人も冷静になって、自分の年齢や置かれている状況を見つめるべきだったこと。

■11月初旬
入院当初、父の意識ははっきりしたもので、母は東京にいる私に病院を見舞うほどではないと言っていました。とはいえ、気になっていたため、病院に直接連絡をしたところ、医師から直接私と話をしたいということでした。そこから私自身もいろいろなことをリアルに感じて対応を始めました。病院で父と面会し、非常に衰弱した様子と入院直後から悪化しただろう脳梗塞の影響で会話がままならない状態になっていました。脳梗塞は手足に麻痺を残すイメージがありましたが、父は飲み込みをする喉の筋力・神経に影響があり、いわゆる嚥下機能が低下してしまいました。当初、父は意識があって、自発的なリハビリとしてベッド上で手足を動かすなど積極的な状態でした。とはいえ、途中途中で不明熱に襲われて、脳梗塞とは別に好不調を繰り返していました。
★反省3、母から最初に連絡をもらった際に、直ぐに病院に連絡を入れるべきだったこと。仮に早めに連絡を入れて、結果的に大事に至らなかったとしても問題ではなかったこと。

■11月中旬
最初に入院した病院では手術(脳梗塞とは別に、入院による精密検査の結果、大動脈瘤を患っていることが判明)ができる医師・環境がないということで転院が最初から検討されていました。脳梗塞と大動脈瘤を患う中で、脳梗塞については手術することもできないですし、改善ということは難しいものでいかに悪化を遅らせるということでしたが、一方で大動脈瘤は入院当初から医師にいつ爆発するか分からないということで半ば脅しとも思える表現をされていました。それもあって大動脈瘤をいかに手術して、そのリスクを排除するのかということが私の頭の中を占めていました。その結果、急性期を経て症状が落ち着いたということで転院することになりました。
★反省4、他に選択肢がないか広く考えるべきでした。最大の過ちだったと思っています。80を過ぎた父にとって大動脈瘤の手術というのは現実的ではなかったと後から気付くことになります。この段階で最初の病院の医師も手術を前提にした会話のみでしたが、後日この医師と会話した際に私人として自分が高齢の両親が同じ状況になったら手術という判断はないと言っていました。この後日の会話を転院する判断の前にすべきだっとと思っています。実際は私が病院を訪問し、転院するまで10日で判断をしたのが、私が父の容体を認識してから1週間もない状況でした。この段階で十分な情報を得て正しい(結果的にですが)判断をするのは難しかったと思っています。ですが、後日に医師から私人としての会話ということで手術はさせないという会話を聞いて、何故あのときのその考えと他の選択肢を提示してくれなかったのか、他にできたことがなかったのかというのは今さらですが後悔しています。
■11月中旬から12月中旬
転院後、不明熱が再発して、嚥下機能は回復するに様子もなく、手術はリスクが大きく、手術をしないという判断になりました。この間、前半は父の意識も会話もクリアな時期があって、私も見舞う中で回復の可能性を大いに感じていました。転院した病院は地域の中核病院で大規模かつ高度な手術が可能な一方でリハビリ機能を持っていないというものでした。そのため、嚥下機能の回復を目指すリハビリの回数や強度など十分な対応ができないところでした。前に書いた通り、前の病院の医師とのやり取りをこの時期に行ったことで手術はせずに嚥下機能回復ということに集中することに決めました。
★反省5、リハビリ強化ということで転院を決定しましたが、父に残されている体力や状況の見極めができていなかったと反省しています。判断そのものをした時点で好不調を繰り返すものの、まだ大丈夫だと思っていました。

■12月下旬から1月中旬
12月下旬に、リハビリ病院に転院しました。当初、脳神経外科の専門医が主治医となっていただき、当時の状況を見る中で十分に嚥下機能回復は期待できると力強い会話をもらっていました。とはいえ、病院の方針で1週間に1度30分以内の面会という制限があり、それまで毎日のように面会して様子が見えていた中での不安がありました。年末年始、リハビリをした時期もありましたが、途中から不明熱がまたも発生して、その原因特定のために検査などに1-2週を要する中で徐々に父の体力が削られていき、週に一度の面会のたびに弱っていく父を見ることになりました。途中で不明熱の原因が脳神経外科の対応外で、内科医に主治医が変更して探るような状態が続きました。
★反省6、過去の反省に通じるものですが、途中の地域の中核大規模病院での手術が不要であったというのが一番の反省です。11月中旬の体力のある状態で不明熱を抱えていても、リハビリ機能もあり、脳神経外科&内科医のいるこの病院で診てもらえてれば、十分な体力と気力の中で回復が望めた可能性があっと思います。

■1月下旬から2月下旬(今)
1月下旬の朝、父の脈が落ちている、危篤であるということで病院に行くことになりました。このとき、電話口で看護師の第一声は私の息子(孫)については面会できないという話しの一点張りでしたが、主治医と話してほしいと懇願した結果強く交渉した結果、息子も面会OKが出て、学校を休ませて連れていき面会を果たすことができました。何とか一命を取りとめました。その後も何度か不明熱におかされ、検査し、対処し、数値上は問題ない方向に向かいつつも、ベースとなる体力が落ちている中で回復というものは見込むことは難しい状態になりました。また、2月下旬の朝、酸素レベルが下がっていて、10リットル?という最大量を提供しているものの、血中酸素濃度が落ちていて非常に難しい状況ということで、2度目の危篤ということで病院に行くことになりました。このときも私たちが到着した時点で呼吸が安定して血中酸素濃度も安定し、私たちの話し声に反応はする状態になり、一命を取りとめました。2度目ということもあり、看護師も個室に移動することで小学生の息子を受け入れるということを認めてくれて、快く対応してくれました。その後、父の数値上の状態など説明をもらって、当初懸案としていた腎臓・肝臓などのデータは改善が見られているという会話の一方で、それでも脈や呼吸が乱れるという状態を考えた場合に、長引く病院での寝たきり生活によるベースの体力低下の影響なんだろうと理解しました。
★反省7、この時点での反省というものは無いですが、前に書いた通り高齢の両親が入院した際はどこを着地点にするのか、幅と余裕をもって判断することが重要だと感じました。なぜ最初の病院の医師が手術は難しいというアドバイス?判断?をできなかったのか、それを引き出すことができなかったのか?自分を責めるつもりはないものの、その都度その都度ベスト?な判断をしたつもりでしたが、後悔しています。これから父が奇跡的な回復を見せてくれることを僅かに期待しながら、気持ちを落ち着かせながら母や家族に不安を与えないように私自身がしっかりして過ごしたいと思っています。

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