前向きな遺言のように

わたしは、3日後に予定帝王切開での出産を控えている。お腹の中では、ふたりの新しい小さな命がもぞもぞと窮屈そうにうごめいて、わたしの肋骨や膀胱を遠慮なく圧迫する。
ふたり?
そう、双子なのだ。

今わたしがこれを書いているのは、病院のベッドの上。
本来一人用である子宮という席に、二人が居座るわけだから、身体としては想定外の負担なのだろう。妊娠32週で切迫早産のため管理入院となった。多胎妊娠である以上、管理入院はほぼ免れないとは聞いていたので、驚きはしない。

そして今回の妊娠での入院はこれが初めてではない。妊娠がわかってすぐ、つわりが悪化して二ヶ月の間入院していた。
経口では何も摂れなくなり、絶飲食で最初の一週間は過ぎた。24時間繋がれている点滴に含まれる栄養と水分が命綱だった。何も飲み食いしていないから吐くものなどない、と思いきや、そうではなかった。一日に何度も黄色や緑色の体液を吐いた。それらは水道の蛇口をひねるようにどっと出た。だんだんと喉が切れ、吐くものには血が混ざった。胸焼けもひどく、真冬だというのに凍った保冷剤を借りて胸に抱いていた。
翌週はいちご一粒、洋梨のひとかけらなどを一日一度は挑戦的に口にしたけれど、それも口にした量以上の体液とともにまた口から出て行ってしまうのだった。その上、唾液が異様なほど分泌され続けるので、一分おきには唾を吐かなければならなかった。つらい、と思って涙も出た。身体中の水分がわたしから逃げていく。水がなければ生きられないのに。

つわり、と一口に言ってもとにかく個人差が大きい。そして予防策もなければ特効薬もない。あえて記録のために書いておくなら、わたしの今回の場合は何度か死を思う程度には辛かった。命を授かった喜びは辛苦の北風によって吹き飛んでしまった。そのことにも罪悪感が募った。
しかし歩くのもやっとの人間にとっては、死を選ぶことさえ手の届かない場所にある希望に見えた。そのくらいには病んでいた。長く病気と闘う人の絶望的な気持ちに、ほんの少しだけ触れた気がした。
同じ頃、向かいのベッド、カーテンの奥には、別の妊婦さんがいた。彼女はつわりではなくべつの理由で入院しているらしく、溌剌としていた。ある日、そこへ面会に来た夫らしいひとが笑いながら言うのが、わたしにも聞こえた。
「つわりで自殺する人もいるらしいで」
わたしはわたしのカーテンの内側で、押し黙っていた。

あと一日だけ生きよう。
あと一日だけ耐えよう。
ゴールの見えない時間の中で、毎日そう唱えながら、わたしは徐々に回復した。どうにかお粥を食べられるようになり、ビスケットをかじれるようになり、お茶が飲めるようになっていった。だんだん、吐く量が、飲食したものより下回っていった。
胃液や食べ物のみならず弱音も吐くわたしを、いろんな人が励ましてくれ、応援してくれていた。

家に帰りたい一心だった。
死んだら、大好きな夫と大好きな娘にも会えなくなる。だから生きようと思えた。家族がわたしの灯台だった。
面会に来たわたしの夫は、弱りきったわたしに対してなにもしてあげられることがないなんて、と泣いた。それを見てわたしも泣いた。手を握り合って大人二人がぽろぽろと泣いていた。はじめは預けられた祖父母の家で遊べて楽しそうだった3歳半の娘も、一ヶ月たつと、はずれていたはずのおむつに完全に逆戻りし、面会から帰りたくないとわたしにすがりついて泣き出した。わたしはやはり娘を抱きしめて泣くだけだった。

その間にも、誰からも見えない暗い場所で、双子たちは順調に細胞分裂を繰り返していた。彼らはただ生き延びるために、光などなくとも日々怠ることなく前進していた。そう考ると、命は幼ければ幼いほど、崇高な歩みをもつものだと思わずにはいられない。


そして今日は、もう出産3日前である。
昨日は手術の説明を受けた。資料の八割は、万が一のリスクがずらずらと書き連ねてある。万が一だが、起こらないとは言えないから、説明されるのであって、他人事ではない。自分はその危険だらけの海の中に、しっかり足を浸すことになるということだ。

車を運転するとき、毎回「死にませんように」と思う。わたしは高校を出てから六年間、毎日運転していたので、驚かれるというか、呆れられるかもしれない。だが車に乗る以上は、交通事故のリスクにがっちりと足を突っ込んでいることになり、つまり怪我や死亡の可能性が、家でのんびりしているときより、いくらか高い状態にある、と思ってしまう(統計学的にそれが正しいのか否かは別として)。それをいつも意識はするけれど、毎日のことなので慣れてくるのか、恐怖はそこまで感じない。免許取得から12年経ち、交通事故は未経験なのでトラウマといったことは幸いにもまだない。

だが手術ははじめての経験だ。そして、安全運転のような自力でできる対策も皆無に等しい。俎上の魚のごとく、ただ手術台の上におとなしく寝そべって、医師や看護師の人々を信じ、まかせることでしか、手術を通過できない。
その中で、リスクにどっぷり浸かるというのは、考えても考えても、やはり恐怖を感じざるを得ない。半ば運任せである。
だから運転の何倍もの強い気持ちで祈る。

赤ちゃん、生きて出てきますように。
わたし、生きて帰れますように。

しかしそれだけではどうにも物足りず、医師の方々への信頼と感謝はもちろんのことなのだが、もの言わぬモノにも祈る。
手術室の扉、壁、台、照明、点滴の針、点滴ポール、手術着、先生の白衣、メス、縫合の糸、そして切られるであろうわたしの子宮、皮膚、筋肉…
みんな、みんな、どうぞよろしくたのみます、と思う。『しきぶとんさんかけぶとんさんまくらさん』(高野文子)という絵本があるが、あの男の子に近い気持ちだ。男の子が悪夢やおねしょの心配を寝具に託すと、寝具たちは夜中そろって「まかせろ、まかせろ、おれにまかせろ」と大変頼もしいのである。そして無事に朝を迎え、男の子は寝具たちに感謝を述べる。

妊娠する前は、妊娠できるだろうかと心配し、
したらしたで、流産、早産、死産を覚悟しながら変化する体調や体型と折り合いをつけ、出産ではおおげさではなく実際に命を賭け、どこかしら傷ついて血を流し、子が産まれたら産まれたで、お乳が痛いの切れて血が出るの、切開した部分が痛むだのとまだまだ終わらない。
それだけの苦痛をわかっていても、産みたい、と思う人がわたしのように少なからずいるのだから、不思議なものだ。一種の生物としてのなにかに背中を押されているとしか説明がつかない。

この入院中は沢山本を読むことができた。安静を言い渡されていてトイレまでしか歩いてはいけないことになっているので、日がな一日ベッドの上にいるしかない。その上、双子でパンパンにふくれたお腹は、座っているだけで肺やら肋骨やらが圧され、長くはそうしていられない。となると、机を出して書いたり描いたりすることはできず、寝転んでいるしかないわけで、寝転びながら本を読んでばかりいた。
中でも良かったのが、三十路過ぎて初めて読んだ『あしながおじさん』である。この名作がこんなに楽しい物語とは知らず、主人公のジュディと共にわたしも逐一笑ったりがっかりしたり喜んだりした。読み終えて、どんな作家の手によってこの素敵な話が紡がれたのかとプロフィールに目をやった。ジーン・ウェブスター。はっとした。
彼女は女の子を出産してすぐ、39歳で産褥熱で亡くなったと書かれていた。

『あしながおじさん』のジュディは言う。
ーーわたしは、生きている一瞬一瞬に、自分が幸せだということに気がついている。そしてどんなに不愉快なことがおこっても、そうしてゆくつもりです。ーー
こんな風に主人公に言わしめた作者が、赤ちゃんをのこしてすぐに天に召されたことをおもうと、その無念はいかほどかと胸が詰まった。
ウェブスターが亡くなってから約100年経ち、医療は進んだ。でも、出産を控えて入院中のわたしには、かなりがつんときた出来事だった。

手術は「不愉快」だ。痛いだろうし、しんどいだろうし、怖いなあ、いやだなあ、と思う。
でもジュディの言葉を忘れずに当日を迎えようと思っている。わたしはいまとても幸せなのだし、手術の間もその幸せなことにちがいはないのだから。

そして、もしものときのために。
わたしが一番愛する家族、夫になってくれたMと娘として生まれてきてくれたYちゃん、
いつまでも、そしていつでも、どこにいても、
わたしから、尽きることのない愛を。

無事に帰ってこれたら、あのちいさなおうちに家族五人でぎゅうぎゅうだけれど、たのしく笑って暮らしてゆこうね。

2020.7.14

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?