長女、一歳二ヶ月のもちもち

親であるわたしと夫が、今になってようやく、七ヶ月前後の娘がいかにふっくらと、はちきれんばかりの身体つきだったか、しみじみわかるようになった。当時は出会う人や病院で、ほとんどの人は娘を見て『どうしたの?』『どうしたらこんなにぷくぷくになるの?』と笑いながら言われたものだ。まだほとんど母乳だけで栄養をとっていたし、月齢的にも歩いたりはできないので、飲んだ母乳がそのまま肉体を成長させていた頃だ。だからこそ、赤ちゃんってこんなもんだよなあ、そんなに笑えることかなあ、と不思議に思ったものだ。もちろん平均よりはふっくらぷっくりしているとはわかっていたつもりで、その上で。
ところがようやく伝い歩きもして母乳より食事の割合が多くなると、すらりと幼児体型に変身してきた。そうして今、その『どうしたのか』と尋ねたくなるほどのあの頃の写真を見返すと、『どうしたんや…?』と恐ろしくなった。それくらい、彼女はもちもちしている。ほっぺたを針でつついたら風船のように破裂するんじゃないかと思うほどである。
でも当時のわたしと夫はそうは思っていなかった。毎日毎日当たり前のようにそこにあると、異常的なことも、平凡な日常風景になってしまう、ということがよくわかった。でも、もういい思い出だ。

とはいえ、それでも、痩せたなあ、とわたしは思う現在でも、同じ月齢の子と並ぶと、あらら?一回り大きいぞ?ということになる。
そして、顔も胴体も手足もすらっとした他の子はもうてくてくと歩き出している子が多い中、我が子はようやく一メートルヨチヨチ歩きができるかどうか。そうか、たぶん、身体がおもたいんだなあ…と気付き、ふふっと笑えた。大丈夫、いつかは歩けるさ。


話は変わって、マインドコントロールという言葉を最近よく見聞きする。怒りをコントロールする、とか。流行っているんだろうか。
それでふと思ったのは、ここ数日でぐんと怒り方が生々しくなってきた娘のことである。今みでは不服なときも、わーんと泣いたりのけぞってみたりして表現してきた。それが最近、もっともっと不服な気持ちを伝えてくるときがあって、そのときは、眼にぐっと力を入れて口を一文字にして歯を見せながら震える。涙ぐみ、顔はあっというまに赤くなり、しかし声は出さぬまま、手はそばにいるわたしはの腕を逃がさんぞとばかりに掴む。こんな幼子ながら、まさに殺気立つような、鬼気迫るものがあり、本気でぞくりとさせられるほどなのだ。
そして思ったのは、怒りというのもとてもピュアな感情の一雫なのだな、ということだった。
喜怒哀楽という言葉はほんとうに感情の基本のエッセンスをつなげたばっちりくる言葉だな、とも。
憎い、というものまで感じているかはわからないけれど、怒りは彼女の中で溢れ、身体中でそれを表現するというか、勝手に滲み出てきているようにみえる。怒ってやろうと意図して睨むとか、そういう作為的なものはまだ見られない。だから怒りの感情は彼女の意思を超えて放出されているようにわたしには見えるのだ。あくびやくしゃみのような、もともと備わっている能力の一部として。

でもそれを言い出したら、感情の全てがそうなのかもしれない。それをいつのまにかコントロールしたり、しなかったり、してみようとしてうまくできたりできなかったり、そうして悩める者になっていく。それは悲劇ではなければ、苦痛のスイッチでもない。彩、とわたしは言いたい。
彼女は着実に人間になっていく。
どこまでも幸せを求めていいのだと知ってくれたらいい。それを咎めるものも止めるものもほんとうはない。

2017.9.28

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