長女、一歳を迎えて

今日で彼女は一歳と一ヶ月になった。一歳までは毎月の誕生日ごとに、何ヶ月になったなったと小さく騒いでいたが、一歳を過ぎると、一歳は一歳であって、何ヶ月ということはざっくりとしか気に留めなくなってしまった。

意思の白黒がはっきりして、いやなものはいやだし、行きたい方向はそちらであってあちらでは決してないとか、それではなくてこれが食べたいとか、ボールを穴に落とし入れるおもちゃの遊び方がわかったり、脳というか、心の発達は相変わらずすごい勢いだ。
身体のほうはというと、伝い歩きはベテランで、たまに何もつかまらずに立つことがあるけれど、おそるおそるやってみているのだということがよくわかる。手を離しながら、どうかしら?という表情で、立てたことを大人が喜ぶと、一緒に笑う。そして母親であるわたしがすぐそばに待機しているのをわかっていて、わざと、ぐらりと派手に倒れてみせる。それがバランスを崩してなのか、自分の意思で倒れているのか、もうわたしにはわからない。しかしひとりでいるときは上手くぺたんと座るように着地したり、何かを咄嗟に掴んで転ばないようにしている。母親はまちがいなく自分を受けとめる、と彼女は心底信じているのだ。なんというまっすぐな信頼だろうか。背筋が伸びる。

身体のことについて今回はもうすこし書こうと思う。
アジア圏の赤ん坊に多くみられるからその名がついた、蒙古斑。医学的にはメラニン色素がなんらかの理由で残ってしまったものだとか、かわいいのは天使のしるしや、神様が触れた跡だという説をインターネットで見かけた。
ケツの青い奴…などというくらいだから、おしりにだけできるものだとばかり思っていたのだが、長女を出産してすぐ、そうではないとわかった。おしり(しかもそれもまだらに広い範囲で)はもちろん、それと陸続きに背骨のほうへ広がり、しまいには両肩に伸びる大きな大きな、青い、まさに大陸が背中にどーんと浮かんでいたのだ。さらには二の腕、とんで手首から手の甲、膝、足首にも薄く孤島があった。
そして、背中に二つ、片脇腹に一つ、藍色と言えるほどの濃さの、大人の指先ほどの滲んだ点もあった。調べるとこれも蒙古斑の一部だった。実はわたし自身この濃い滲みが左腕にあり、今もかなり薄くなったがほんのりと残っている。
女の子なのでというと古めかしい感覚だと咎められるかもしれないが、正直、顔でなくてよかった、と思った。おしり以外のものは異所性蒙古斑というそうで、消えにくい傾向があるのだそうだ。それでも手首や膝のものは側に寄ってよく見ないとわからない程度だけれど、小学生になって、もしかすると中高生になっても残っていて、嫌がったらかわいそうかもしれない、と思った。だからなおのこと、濃いものが衣服で隠れるところでよかったと思った。
わたし自身が、思春期の頃から二十歳をすぎても自分の容姿について深刻に悩んでいたことがあるから、もし彼女がこの青いしみをとても苦痛に思ったら…と想像するだけで、なんだか、胸がはりさけそうに痛ましいのだ。まったく気にしない可能性だってもちろんある、彼女が自分の身体や容姿についてどうとらえるかは今はまだわからない。
だけど、大人のいうことはなんだか軽率に聞こえて聴きたくないと言われてもその気持ちがわかるだけに反論できないけれど、それでもなお言わせてもらえるなら。
お風呂上がりにちいさな背中をふきながら、その蒙古斑を見つめながら、わたしは想像する。

彼女をわたしの胎に、あるいはこの世に、この生に、送り出すそのとき、神様が、その背中をさする様子を。何度も、何度も。神様の美しい大きな手は背中からはみ出して肩に触れ、指先が手首や足首にも触れる。
いってらっしゃい。幸せを知っていらっしゃい。がんばってらっしゃい。気をつけて。幸せにね。しっかりね。
彼女は踏み出す、この世界へ、でも神様はどうしてかなぜか、特別この子が気になって、己の加護が彼女にあるようにともう一度だけ手を伸ばす。するとその細い指先が、三本ーー背中に二つ、脇腹に一つーー彼女に強く触れた。

そのしるしごと、細い胴体を、わたしはタオルでくるむ。あなたは神様のお気に入りだったのかもしれない。名残惜しいくらいお気に入りだったから、たくさん触れて、あとをつけて、ようやくわたしに預けてくださったのだな、きっと。 青いは海、空、藍。青いは貴き神様の色。

ほんとうなの?と聞かれたら、わたしの想像でしかない。でもわたしはそう思っている、そんな気がしてる、と、もうすこし大きくなった彼女に話したい。馬鹿にされてもかまわないから、母親はそんなことを言っていたと、鏡越しに背中を見て、いつか大人になった彼女が一度でも思い出してくれたらいい。

2017.8.28

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