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「音韻」「音素」は概念の部品

phoneme(「音韻」とか「音素」と訳す)とは何か。

その本質をズバリ言っている文がある。

「音韻とは音声の、言語規範によって規定された種類としての側面である」

(鈴木覺「関係詞論」佐良木昌編『時枝学説の継承と三浦理論の展開 (言語過程説の探求)』明石書店、2004年、179頁)

音声の「種類としての側面」とは、音波のそれぞれの感性的なあり方が一定の種類に属しているという側面をさす。

 「種類」という概念は、あらゆる概念の基盤となる「概念の概念」である。

たとえば、リンゴという「種類」は、対象に共通する感性的な側面を土台としながら、個々の感性から独立した側面、つまり普遍性(赤い、甘酸っぱい、料理に使えるなど)を内容とする。

このように概念とは、対象を感性的な側面ではなく、「種類としての側面」つまり超感性的な(もはや感性から離脱した)普遍的な側面でとらえたものである。

概念は人間が内心にもつ認識の規範なので、それじたいは音も形もない。この無色透明な=超感性的な概念にもとづいて、認識対象を日本語の感性的な音声や文字に変換すると、「リンゴ」という語になる。

このとき、リンゴという語の音声や文字は、もはやもとのリンゴとはかけ離れている。

 もとのものとは似ても似つかない、人間がいつでも左右できる音声や文字に変換されたからこそ、私たちは対象が目の前になくても語を操作できる。こうしてわれわれは概念によって自由に思考し、それを表現できる。

音声・文字を「種類としての側面」でとらえて概念化することもできる。

それを音韻とか音素と呼んでいる。

だが、個々の音声・文字は完成された概念ではない。

音声・文字は概念表現のいわば「部品」である。部品だから、その種類は有限ですむし、部品を組み合わせた完成品は無限の種類となることができる。

概念と対応するのは、音声・文字の組み合わせたる語と、語の組み合わせたる文、文の組み合わせたる文章である。

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