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「ジャパニーズ・イングリッシュ」でいい? その危うさと正しさ

ジャパニーズ・イングリッシュは、「日本語を母語とするならば、自然に生まれてくる英語である」。

だからジャパニーズ・イングリッシュで「いいのではと思う」。

そう書いた本がある。(河原俊昭「むすび どう考えればいいのだろうか」河原編『小学生に英語を教えるとは? アジアと日本の教育現場から』めこん、2008年、320頁)

「ジャパニーズ・イングリッシュ」は恥ずかしい。恥ずかしいから話せない。話せないからますます恥ずかしいー

この悪循環を断ち切るには、はじめから「ジャパニーズ・イングリッシュでいい」と開き直ればいい。

だいたい、シンガポールだってフィリピンだって、独特の発音で堂々としゃべっているじゃないかー

この論法は、支持者がけっこういる。学校の英語教員にも、そう考えている人がいる。

これは半分間違いで、半分正しいと、私は思う。

以下、発音の場合で考えてみる。

たとえば、ここに水泳を習いにきた生徒がいたとして、コーチが「あなたの自然のままでいい」と言ったらどうだろうか。

水泳は人間にとって特別の行為で、なかなか難しい。「自然のまま」ではうまくできない。だから習いにきている。

そのとき、「あなたの好きなように」というコーチは、責任を果たしているだろうか。

「ジャパニーズ・イングリッシュでいい」という考えが半分間違いだというのは、そもそも外国語の習得とは、習っている言語に敬意をもち、特別の訓練を覚悟し、発音もその言語らしくするように努力することが含まれていると思うからである。

アメリカ前大統領のオバマ氏は、インドネシアで少年時代の三年間を過ごした。そのとき母親は、オバマ少年に英語の通信教育講座を履修させたという。

http://kishida.biz/column/2008/20081112.html

私は、この母親を尊敬する。外国育ちとか人種的少数派とか、ハンディがあればあるほど、きちんと話すことが大切だと彼女は知っていたのである。

じっさい、10年間日本語を勉強したという人が、「発音なんか」と開き直り、日本語らしい発音をしようとしなかったら、あなたはその人を尊敬するだろうか。

英語の発音は、われわれにとって特殊な身体の技術である。その技術に敬意をもち、自分なりに工夫していく。それが外国語というものではないだろうか。

だがその反面、「ジャパニーズ・イングリッシュでいい」というのは半分正しくもある。

われわれ日本語育ちが、たとえばアメリカ白人のような発音をめざしたとしても、ほとんどの場合、彼らと同じにはならない。どこまでいっても、日本語風の痕跡や雰囲気はなくならない。

だが、それは恥ずかしいことではない。それこそ、私たちの民族的なアイデンティティであるともいえるし、自分の個性を表しているともいえる。それは英語ネイティブにはけっして真似できない独自性である。

むしろ、われわれが日本語風の英語を話すことによって、英語という言語がいっそう豊かになっているとすれば、そのことに誇りをもっていい。

つまり、外国語の発音は、標準とされるものを身につけるように努力しつつ、母語の雰囲気を帯びていることに誇りをもつ。

そのようにして、自分なりに工夫していくプロセスのなかに、一人一人の個性も表れる。

外国語とは、そういう楽しみなのではないだろうか。

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