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暮らしに瞑想を取り入れれば、暮らしが瞑想的になる

2021年6月13日から、マインドフルネス瞑想を教わり始めた

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呼吸、身体、心(意識)に変容を感じ、暮らしに取り入れた瞑想がいつしか暮らしが瞑想的になる気配を感じている。

このタイミングで、瞑想を暮らしに取り入れている方、もしくは取り入れようとしている方に向けて、実体験を分かち合いたい。

瞑想自体は、おそらく全ての人におすすめしても問題がないものだと思うが、私が今感じている効果を確信しながら、是非取り組んでい欲しいなと思う方は、コーチ、ボディワーカー、スポーツ選手、ある種の怪しさを楽しめる方。

自分の中の変容

瞑想を深めていくと、自分の内外の境界線が曖昧になっていく楽しみもあるので、「自分の中」という書き方は正確ではない。便宜的にこうして表現していることをご理解いただきたい。

身体

一定の長さを座るようになると、自分の肩、太腿、頭の重さを感じられるようになる。身体の力が抜け、お尻に自重を感じ、頭がわずかに揺れ、背骨に頭が乗っていることが分かるようになる。股関節の可動域が広がり、身体が脱力していく。また、立つことに変化が生じる。頭の先から背骨を通じて、そのまま足の裏に自重が乗る感覚が心地よくなる。身体は動かすものではなく、動き出すもので、その動き出しを利用して、動かしていくものと分かる。何より「感情」を言葉で認識する前に身体が反応していることが分かる。最近のマイブームは壁逆立ち。

呼吸

呼吸が太く、深いものになる。鼻炎持ちで、常に鼻の左右どちらかは詰まっているものとして生きてきたが、そのような生活にはさよならした。今、こうして、タイピングをしている手をふと止めて、目を瞑り、ゆっくりと息を吸い、胸が膨らみ、肩が上がり、隅々まで空気が行き渡った反動で、今度は空気が身体の外に出ていき、ホッとしていく心の変化を味わうことができるようになった。また、書きながら思い出したのは、吐く息を利用して脱力に役立てることができる。実に味わい深く、おいしい時間となる。

心(意識)

まず自分の中を見つめることが上手くなる。瞑想をしていると、次々に雑念が湧き上がり、消えていくことを知る。雑念は自分で起こすものではなく、刺激に対して反応し、そして消えていくものだと分かる。雑念を泳がすことが楽しくなる。空を見上げて、動く雲を見て、自分の心のようだと思うことができる。まさに実験中であることを書く加えておくと、メタ認知(観察意識)の面白さである。自分を外から見る、おそらくここには、空間だけでなく、時間を超えたメタ認知の悦びも生じるようになる気がしている。

自分の外との接し方の変容

いくつかのエピソードとともに、自分の外側にあるものの接し方の変容や気づきについてのメモを残しておくことにする。

観察する - 子ども

これはかなり興味深いものである。娘が公文できなくて、やらなくて、毎日毎日ストレスに感じていた(私も娘も/ 娘は今もストレスかもしれない。すまん。)。けれど、ジャッジメントを手放して、ただ観る、受け止める、聴くということを意識していたら、あー、この子にはこの子のペースがあるし、主体性が潜んでいるんだと知った。そして、なにより、笑顔の質が変わった。指標があるわけではないけど、変化を受け取ることができた。

怒りの役割 - 親

これまでの人生を振り返った時に、苛立ちや怒りをそのまま発露して、役に立ったことがないことが分かった。何の役に立たないのか?それは心地よく、瞑想的に過ごすという目的に役立たない。苛立ちや怒りをそのまま発露した後には、気まずさや後悔という名のバイブレーションだけが残る。怒りの役割はそのまま発露し、相手をコントロールするためのものではなく、自分の認識に修正すべき点があることを知るアラートなのだ。求めすぎている、感情に振り回されている、わかっていないことがある。これは本当のことだ。親との会話の中で気づいた。ちなみに、怒りは依存的な態度が根底にあることもある。ただ、「怒り」の取り扱いは人類共通の悩みのひとつであり続けるから、完璧は求めない。

比較というものが本当に役に立たない - 大学時代の友人

大学時代の友人家族とホームパーティーをしている最中、ふと「彼らと自分を比べるのをやめよう」と湧き上がった瞬間に、肩の力が抜けた。肩に力が入っていたということは緊張していたということだ。そして、創造性の発揮に緊張は役に立たない。創造的に生きたいなら、ありたいなら、比較することをやめることだ。肩の力が抜けた瞬間を見逃さなかった自分を愛でたい。

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自分というもののの理解

「自分らしさ」というものが求められ、表現しやすくなっている社会になりつつあると言われている。掴みどころがなくて、興味深い、「自分らしさとは何か」と「自分とは何か」について言葉にしてみる。

自分らしさとは何か

自分らしさとは、大切にしたい価値観である。ただ、価値観は固定観念、色眼鏡に基づいて決まっており、「気づき」とともに変わっていく流動的なものだ。とするなら、自分らしさとは常に変わっていくものだという前提に立っておく必要がある。今、大切にしたいと感じる価値観は、偶然今この瞬間に感じているに過ぎないと扱うことが肝要だ。ただ、中でも本質的な価値観は身体感覚が教えてくれる。真に役に立つと分かってくるからだ。

自分とは何か

大きく3つある。

最も常識的な自分の単位は、この目に見える身体である。身体はいろいろなことを教えてくれる。思えば、法律上も、自分の定義はこの身体、個体だ。そして、次に、観察意識だ。この身体があると感じている意識は明らかに身体とは別の自分として捉えられるものな気がしている。瞑想でも、ボディスキャン(身体感覚)とメタ認知(離見)のワークが存在している。
最後がかなり興味深い。あなたは私である、世界は私である。そして、私はあなたであり、世界であるという感覚である。他者と向き合いつながりを感じる感覚、秋の朝の通勤時、ひらりと舞う赤と黄色に染まった葉が目に入り、親近感が湧く感覚。これらがそれを証明している。

おまけ - 受容と眼差し

観察する技術が上がっていくと、気づくことがある。まず、自分が何より楽なのだ。ジャッジメントは苦しみを生むというのは本当だ。瞑想的な感覚を会得し、その感覚のまま暮らしていきたいという願いが立ち上がると気づくことができる。その時に分かるのだ、ただ観ることの有用性を。それは受容していることであり、眼差しである。存在自体を見つめること、それが「愛(の一面)」だと教えてもらうことができる。

決断、覚悟について書きたくなったが、これはまだ取り扱えるテーマではないのかもしれない。おそらく、受容とワンセットで語られるべきものは、決断で、その両方を取り扱う覚悟というものがある気がしている。

さいごに

「暮らしに瞑想を取り入れれば、暮らしが瞑想的になる」というタイトルにしたことを感じ始めた感覚が立ち上がってきたので、その周辺にありそうなことを書いてみた。

瞑想的な暮らしは、楽で、つまり、私は楽になりたいんだなと感じています。

どなたかのインスピレーションにつながれば。

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