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先入観の危うさ

 前職が学習塾講師だったということもあって、20年近くのあいだたくさんの子供たちや親御さんたちと関わってきて、私が率直に感じたことは、その差は多少あれど、親は自分の子供のことをよく分かっていないのだ、見えていないのだ、ということ。親は子供に対して、いい意味でも悪い意味でも先入観だったり期待だったり、一種のフィルターがかかっていることで本質が見えていない事が実に多い。

 例えば、学生時代に数学が苦手だったお母さん。自分の血を引いているから、子供も算数や数学が苦手だと思っていたりする。だから、子供が算数でつまづいたりテストで間違ったりすると、おそらく慰めようと「お母さんも算数苦手だったからね」などと不用意なひと言を言ってしまう。その結果、恐ろしいことにその子供は「そうか、僕が出来ないのはお母さんも苦手だったからか」と思ってしまう。結果としてその子も算数や数学が苦手になってしまう。こういう事例を何度となく見て来た。

 「この子は勉強が苦手だから」とか「この子はやっぱり親に似て文系よね」という親の決めつけが、子供の持っている可能性を狭めてしまう可能性が非常に高い。私の経験上、記憶するスピードには先天的な優劣はあるにせよ、少なくとも大学入試までの「学習」において、点数や偏差値の差は単純に経験の差以外の要素はない。

 分かりやすくいえば、点数の取れる子は頭が良いからではなくて、問題を解いたり練習などを繰り返しやっていた子。点数の低い子は頭が悪いからではなくて、やるべきことをやっていない子。乱暴な言い方をすれば、漢字のテストが悪いのは漢字を書いていないから。文章読解力がない子は文章をそれまでに読んできていないから。計算を間違える子は計算を何回もやっていないから。それだけのことだ。

 そこでもし努力していても点数が取れないとしたら、それは大人の与え方や努力の方法が間違っているに過ぎない。そういう意味では生まれ持った身体能力に大きく依る運動や芸術の分野よりも、遥かに勉強の方が公平で努力が結果に現れる。センスや才能よりも努力が勝る世界。それがあくまでも受験における「学習」だ。

 しかし、それは果たして子供の学習だけに限った話なのだろうか。私たちは日々色々な場面で、相手に対して「この人はこういう人だから」「この人はこれが得意だから」と思って接することがほとんどだが、果たしてそれは正しいのだろうか。その人の一面だけを見て判断している、先入観で相手を捉えていることも多いのではないだろうか。私たちもそんな風に周りの人や自分自身を偏った考えで捉えていないだろうか。

 そして、自分自身のことも正しく捉えられているのだろうか。自分の得意不得意というのは、自分の単なる思い込みなのではないだろうか。思い込みとは恐ろしいもので、繰り返しそう思っていると本当にそうなってしまうものなのだ。

 算数が苦手な子が、ただやっていなかっただけなのに、自分は苦手だと思い込むことで算数が出来なくなったように、もしかしたら、私たちが苦手だと思っていたことは、ただ経験値が少ないだけだったのではないだろうか。単なる先入観、思い込みなのではないだろうか。

 スピリチュアルな観点ではなく、私は「言霊」を信じている。それはつまり、言葉にした事は耳に入り、結果として自分の頭の中に刷り込まれていくことで、思い込みが強くなっていくのではないか、という考え方だ。人は自分の思った通りになる、というのはあながち間違っていないのではないか。ならば自分にとって有益な言葉を聞きたいし、自分も使いたい。

 それに気付いてからの私は、ネガティヴな言葉を言ったり書いたりすることを止めた。逆にポジティヴな言葉を周りにも自分にも積極的に使うようにした。結果として、教えていた子供たちは出来るようになり、周りの人たちは笑顔になり、自分自身も出来ることの可能性が広がっていった。思い込みが負に働くのなら、正にも働くのではないかと思うのだ。

 何かを言ったり書いたりするのなら、聞いたり見て気持ちの良い言葉を使いたい。マイナスではなくプラスの言葉を使いたい。下品ではなく上品な言葉を使いたい。悲しいことよりも楽しいことを考えたい。後ろを振り返るよりも前を向いていたい。そんな些細なことで人は変われるように思うし、私たちが抱えている大半の悩みや迷い、諍いはなくなっていくのではないかと心の底から私は信じている。

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