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あつまれ 〈ラディカルな他者〉の森① ―悪とホメオパシーについて

 最果ての島で出会った彼は、翌日にはぼくたちの島に渡ってきていた。彼のことは何も知らない。でも、ぼくたちはきっと分かり合える。ぼくたちは何かを共有している。彼はきっとぼくと同じように離島での暮らしを愛し、同じようなものを欲し、同じように島の発展を言祝ぐのだ―。

タコヤ

 「透明性」は、多くの人々の夢だった。コミュニケーションによって包み隠さず思いを通わせ、分かり合うことが正義だった。たとえば、ジャン=ジャック・ルソーが透明性を理想化した思想家だったことはよく知られている。

 しかし、透明な社会、すべてが理解/了解可能とされる「透きとおった」社会において、失われるものはないのだろうか。ぼくたちは、社会の外なる他者と、ぼくたち自身の内なる他者の双方を失ってしまったのではないか。そんなことを考えたのが、後期ボードリヤールの仕事である『透きとおった悪』※1だ。

透きとおった悪

ボードリヤール『透きとおった悪』表紙

 ボードリヤールといえば、『消費社会の神話と構造』における商品の記号化の分析が有名だが、90年代のボードリヤールのエクリチュールは論理的・分析的なものから、より自由奔放なそれに移っていく。

世界は錯乱的な事態に向かっているのだから,わたしたちも錯乱的な視点に向かわなければなるまい。 ―『透きとおった悪』エピグラフより

  彼は本書でポストモダンの西欧社会を見つめてその情報社会化を分析し、大きく下記3点の変化を指摘している※2。

①政治、経済、コミュニケーション、芸術、性愛……といった社会の諸要素は、徹底的にコンピュータ上の数字をはじめとする仮想現実に変換されるようになっている。

変換された諸要素は、既存の価値の準拠枠をはみ出して、偶然的・不確実に流通・拡散・相互転移していく

③そうしたシステムは、常に"善"や"透明性"を過剰なまでに志向するが、実際には社会は"悪"から逃れられない。テロリズム、イラン革命、エイズや癌……いつどこにでも西欧社会のシステムにとっての"悪"は潜み、システムの網を使ってウイルスのように拡散していく

ルドン_笑う蜘蛛

ルドン≪笑う蜘蛛≫

 そしてこうした状況は、「他者」の問題を惹起する。ボードリヤールは同書において、多くの紙幅を「ラディカルな他者性」という概念に割いていた。このnoteの主題はそれである。ぼくたちは、「他者なき世界」を生きている。そのことの意味を、複数回に分けて考えていきたい。

 初回は、1節及び2節で「ラディカルな他者性」とは何かを、ゴーガンなどの絵画も取り上げながら紹介する。その後、3節で、「悪」の伝播というボードリヤールの問題意識について見てから、4節で現下のウイルスの問題にかこつけてこの議論を考えてみる。


※1 ジャン・ボードリヤール著、塚原史訳『透きとおった悪』(紀伊国屋書店、1991年)

※2 特に①②は実際のボードリヤールのテクストでは混じり合って記載されているが、ここでの要約は下記論文の整理に従った。 水原俊博. "後期ボードリヤールの社会理論の社会学的検討." 信州大学人文科学論集 1 (2014): 93-103.


1.社会とラディカルな他者

 まず、ラディカルな他者とは何だろうか。それは、「理解できず、同化できず、思いつくことすらできない」他者である。ぼくたちにとってラディカルな他者は、自身と比較不可能であり、自身との「差異」において語ることの不可能な存在だ。そしてボードリヤールはそれを、社会のなかに、また個人のなかに重層的に存在するものとして描いた。

05_タンギー_五人の異邦人

タンギー ≪五人の異邦人≫

 まず社会におけるラディカルな他者とは何か。それは常に西欧社会のシステムと背中合わせであった否定性である。分かりやすい例は人種の問題だ。

人種差別は他者が大いなる他者(≒ラディカルな他者、引用者註)であり,外国人が外国であり続ける限りは存在しない。だがそれは他者が差異をもつ存在となり、危険なほどに自己に接近するとき,存在しはじめる。 ―『透きとおった悪』より

 西欧社会にとって、まだ見ぬアフリカの部族はラディカルな他者であったかもしれない。しかし、そのラディカルな他者性は、その地を侵略し、人々を自身と同じ「人間」として―たとえば、「肌の黒い人間」として―自身との差異において捉えたとき、失われる。それは最早、「他者」ではなく「他人」である※1。

 またたとえば、ぼくたちに分からない意味不明な言語を話す彼/彼女を、「狂気に憑りつかれた人間」と認識したとき、それは「ラディカルな他者」から「病める他人」に変わる。

 近代の合理性は、その植民地主義において、またその科学の発展において、ラディカルな他者を侵略しながら拡大してきたのである。

ゴーギャン_タヒチの女

ゴーガン ≪タヒチの女≫

 ゴーガンの絵画は、まさにこうしたラディカルな他者性への憧憬を宿している。彼の絵画の中の女性たちは、まさにぼくたちからは理解しえぬ存在だからこそ、独特な尊厳をたたえる。

 そしてだからこそ、ゴーガンが現地で実際にしていたこと※2とこうした絵画とのギャップは示唆的だ。そもそも、タヒチは既にフランスの植民地であり、そこは近代化の波の中にあった。そして彼はタヒチ滞在中、現地の少女を何人も自身の愛人としている。ラディカルな他者は決して触れえぬものであり、「10フラン相当の衣服」と引き換えに慰みものとするなど本来不可能だ。彼にとって現地の人々は、実は自己でないが交わることのできる「人間」=「他人」に過ぎなかった。

 つまり彼は、ラディカルな他者性を実際の島の光景に見出したのではなく、絵画において創り出したに過ぎない(勿論、それは彼の輝かしい才能によるわけだが)。このことは逆説的に、19世紀末の時点でも、西欧社会がラディカルな他者性に飢えていたことを示しているのではないだろうか。

われわれは、われわれの世界以外の場所を清算してしまった。(星や運命に対する)拝跪において生きている、われわれとは異質な文化はあるが、われわれは(運命の不在に対する)茫然自失のうちに生きている。われわれからは、もう何も生じることがない。 ―『透きとおった悪』より

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ゴーガン ≪我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか≫


※1 当然ながら、「人権」や「肌の色を問わず平等な扱いをすること」を本稿において否定しているわけではない。ただ、近代的な「人権」の観念が孕む問題を考える上では、ボードリヤールの議論は有益かもしれない。

※2 この記事なども、近年議論に上っているゴーガンの実際のふるまいを記述している。 Is It Time Gauguin Got Canceled? Nov. 18, 2019 (NYT) 


2.「私」のなかのラディカルな他者

 さて、少し話が逸れすぎた。このように社会が外部と向き合う上で「ラディカルな他者性」が存在したわけだが、ボードリヤールによれば、ぼくたち一人ひとりの中にもそれが存在する。

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ラファエロ ≪キリストの変容≫

 前近代の社会では、人間は唯一の神によって独自性、つまりかけがえのなさを与えられていた。洗礼により、神とのつながりが確認され、かけがえのない個が生まれる。

 しかし、近代に「神の死」が訪れたことで、ぼくたちは「人格」によりお互いの独自性を保つよう方向転換する※。ただし、ここでいう「人格」は、「明るい」「暗い」といった明晰な言葉で表現できる性格だけを指すものではない。ぼくたちは、内なるラディカルな他者によって固有の人格を支えている。

 すべてが言い表せるということは、すべてが交換可能であるということに等しい。だからきっと、ぼくたちの中には「言い表せない何か」が必要なのだ。それは時に、「何かへの強すぎる憧れ」という形をとることもあるだろう。たしかにぼくたちは、ときに自身の頭で考えることや、自身の自己認識と全く異なる感情を抱き、葛藤や不安に苛まれる。

ピカソ_鏡の前の少女

ピカソ ≪鏡の前の少女≫

 しかしボードリヤールは、こうした個人におけるラディカルな他者性もまた、テクノロジーの進化の中で失われつつあるという。

すべてのひとが自分自身と自分の欲望について、悪魔的なほどよく知っている。すべてがとても単純になっているので、仮面をかぶって歩む者はこっけいに見えてくる。 ―『透きとおった悪』より

 DNA解析、脳に差し込む電極、美容整形……。ぼくたちは、自身の中の「宿命的なもの」≒ラディカルな他者を透明化し、可塑的なものに変えてきた。

 そして今この瞬間も、アルゴリズムがぼくたちを分析し、欲望の束として処理している。こうして人間が「ひかえめ」「いじっぱり」「○○が好き」といった要素に還元されるとき、ぼくたちの「かけがえのなさ」は危機にさらされる。

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 鏡の像は必ず左右反転しており、ぼくたち自身と同じように見えて、決して重なることがない。鏡の奥の彼ら彼女らは、ぼくたちと合一せず、でも離れることもなく、ぼくたちをただ見つめるだけの存在だ。

 こうした自らを見つめる未知の存在としてのラディカルな他者もまた、姿を消し始めている。

視線としての他者、鏡としての他者、不透明性としての他者は終わった。今後は、透きとおった他者たちが絶対的な脅迫者となる。鏡つまり反射する表面としての大いなる他者は、もう存在しない。自意識は虚無のなかに放出される危険にさらされている。 ―『透きとおった悪』より

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マグリット ≪偽りの鏡≫

※下記論文での読解も参考としている。 藤井友紀. "ボードリヤールと他者性--他者性の喪失問題考察に向けて." 立命館産業社会論集 38.4 (2003): 199-221.


3.超伝導する悪

 さて、ここまで社会と個人それぞれにとってのラディカルな他者について簡単に見てきた。そのうえで今回のnoteでは、特に1節で触れた社会におけるラディカルな他者の喪失に関連した話題として、ボードリヤールが『透きとおった悪』で中心的に触れている「悪」というテーマについて扱ってみる。

 ボードリヤールのいう「悪 mal」とは何か。それは必ずしも厳密に定義されていないが、「進歩、合理性、政治的モラル、民主主義等々の西欧的諸価値の否認」といった言葉で表現される。言うまでもなくこれは、ラディカルな他者という概念と部分的に重なり合っている。

 西欧文明のシステム(ここでの西欧社会という言葉には、米国を含め1990年当時の「先進国」の文化という含意がある。以下単に「システム」と呼ぼう)をかき乱すもの、秩序を損ねるものこそが悪である。なお、ボードリヤールがあえてmalという言葉を使っているのは、彼が西欧社会の価値観を内面化した申し子だからではなく、一種の皮肉のように思える。

 システムは近代以降、この悪を見えなくすること、侵略することを目指してきた。未開の地域は開明的に。非合理なものは合理的に。美しくないものは美しいかたちに。これらが全て、産業革命を成し遂げたシステムの独断に基づきなされていく。すべてが肯定性に塗りつぶされていく。

ドローネー_都市パリ、女性と塔

ロベール・ドローネー 《都市パリ、女性と塔》

 これは言い換えれば、ラディカルな他者を「他人」へと還元していく道のりともいえるだろう。文明の過剰の時代※に、人は強迫観念に囚われて否定性を切除していく。透明に、透明に、透明に。様々なメディア―モビリティーズは身体を拡張し、人と人をつなげ、なりたい自分の実現に寄与していく。彼曰く、「超伝導」の社会である。

 しかし、それであらゆる悪、あらゆる他者が消えてしまうことはあり得ない。悪はいたるところに潜在し、時にシステムの機能不全を引き起こす。そしてその際、悪は社会の「透明性」を逆に活かして風に乗るかのように伝播し、システムを蝕んでいくのだ。

ルドン_眼=気球

ルドン ≪眼=気球≫

 超伝導するサイバー空間には、コンピュータウイルスという悪が拡散した。超伝導する金融システムの世界的な相互依存により、そのクラッシュという悪が登場した。超伝導する性としてのフリー・セックスにより、エイズという悪が伝播した。90年当時にはまだ起きていないが、湾岸戦争のTVでの放映も、この超伝導の現象に数えられるだろう。

 社会や個々の身体を純粋なものとすること、異物を廃することは、かえって免疫を損ねることがある。他者を徹底して排除したシステムは、逆にこうしたウイルス=悪≒ラディカルな他者のひとつを分泌してしまったのだ。これが社会の「ウイルス的段階」である。ウルリッヒ・ベックならこのウイルスのことを、「数量化できない不確実性=リスク」と呼ぶのかもしれない。

 そして、透きとおったシステムでは、悪を制することができるのはまた別の悪だけだ。

透きとおったシステムでは、悪にたいする善の戦略は、もはや存在せず、悪にたいする悪の戦略しか存在しない――最悪なものの戦略だ。それは選択の問題でさえない。われわれの眼の前でくりひろげられるのは、毒で毒を抑えるホメオパシーの有毒性である。 ―『透きとおった悪』より

ブーグロー_地獄のダンテとウェルギリウス

ブーグロー ≪地獄のダンテとウェルギリウス≫

 たとえばエイズの対策においては、「セックスの制限」という、最悪の私権制約が解決策の一つに挙がった。悪を制限するためには、別の悪=システムの掲げてきた価値観の否定を伴わなければならない。強権は、悪を適示しそれに立ち向かうことによってはじめて成立するのだ。ショック=ドクトリンとはまさにこのことだろう。


※なお、ボードリヤールはここで、他者の再発見をめざす「差異の狂宴」というモードが人々を包んでいるとしている。この概念については次回以降に触れようと思う。


4.ウイルス的段階と文字通りのウイルスについて

 ぼくたちは、システムを揺るがす「悪」を生きているうちに何度かは経験している。ぼくの場合、9.11テロと東日本大震災は明確にここでいう悪にあたるだろう。前者はテレビ映像により伝播する恐怖、また後者はカタストロフそれ自体の衝撃と放射能を巡るスティグマなど、システムが受け止めきれないほどの悪をまき散らした。

 そして今まさに、新たなる悪としてCOVID-19が超伝導している※。人の移動を前提とするシステムは一部見直され、もとより言われていた「グローバリズムの終焉」といった言説が、再度叫ばれ陳腐化してきている。

ドーミエ_蜂起

ドーミエ ≪蜂起≫

 今、権力は様々な形で超伝導の流れを断ち切ろうとしている。一つは、疫学上の必要性から、物理的な人の移動を制約することだ。移動の自由を制約することは、時に人が集まって行う政治的活動に対する足かせにもなりうる。デモに対して「3密になるからやめるべきだ」と主張するのは、勿論意図次第だが、時にトーン・ポリシングにも転化しうる。

 それでは、サイバー空間で言論を交わせばよいのではないか。しかし、もう一つの武器が権力には与えられている。それは、インターネット上での表現規制である。政府公式見解と異なる研究、集会の制限をに対する批判。様々な言論が消えていく

 「悪を淘汰する」という名目で、悪が透明性を淘汰している。既に出来上がってきていた透明な世界が、一つまた一つと誰かの恣意で失われている。海の向こうでは、冒頭で触れた透明な世界としての〇〇島もシステムによって奪われているらしい。

 これはラディカルな他者性の純粋な復活ではない。ぼくたちがかつて失い、時に憧れすらするのは、ぼくたち自身の中の、また異なる生との間での、誰にもコントロールできない他者性である。ホメオパシーにおいて復活した他者性=不・透明性は、ぼくたちの個を奪い、特定の目的の下に統合しようとする。

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アンソール ≪キリストのブリュッセル入り≫ 

 白いマスク。一人ひとり異なる顔を、「画一的に」「不透明に」する道具。それは、人がみな「他人」に還元されたあとの、人工的な不透明性を象徴する。

 ラディカルな他者から透明性へ、そして、透明性のなかを伝播する悪へ。そうした時代認識に乗るのであれば、まさにあのウイルスは、「透きとおった悪」の名にふさわしいように思える。


※個人的には、これで「世界が変わる」のかという点にはかなり疑問を抱いている。「世界が変わる」言説の胡散臭さについては別のnoteで既に書いた。

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