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赤い公園、津野さんのこと

19日の仕事終わりに、津野さんの訃報を知ってから、どんどん悲しくなるし、辛くなるのだけど、好きなバンドのメンバーの死が自分の生活には気持ち以外何も関わってこず、いつも通りに生きねばならないことでさらに辛さが増している気がする。
音楽は赤い公園以外聴きたい気持ちじゃないのだけれど、生活に支障が出ることが怖くて、訃報を知ってからは音楽自体自分から聴くことをしなくなってしまった。まだ、そんなに日が経っていないから、大げさな言い方すぎると思うけれど。
赤い公園を好きになってから、他のものを好きになったときとは全然違う想いを沢山してきた気がしてならない。好きなバンドのメンバーと物販で話が出来るなんてことがあるなんて思わなくて、ライブ会場でお話できたときは物凄く嬉しかったし、ツイッターで認知してもらってリプをもらうのも夢みたいな出来事だった。差し入れを喜んでもらえることも飛び上がるくらい嬉しかったし、逆に頑張って作った差し入れを渡せない事で感じた思いは、身が引きちぎれるくらい惨めで辛かった。
遠征でライブにでかけたときに会える仲間も、SNSで知り合ったのに、毎日学校に通ってできた友達のように会うとしっくりしたし、赤い公園の音楽に惹きつけられて知り合ったからか、みんな心が優しくて明るくて、楽しい人ばかりで、他の好きなもので出会えた人達とは全然違っていた。一人で遠征に行って、現地で仲間と会えて別れが寂しいなんて言うのは赤い公園の時だけだった。
ちーちゃんが脱退してしまった時の悲しさも、他の好きなもので感じたことがない悲しさだった。最後のライブで実は脱退しませーんってドッキリだったらいいのに、と思うくらいの未練を感じていたのも、あの時くらいで、あれからいくら他の好きな物の満ち欠けがあってもあの時の寂しさを超えることが無いように感じる。石野理子ちゃんが新しいメンバーになった初ライブを見たときの気持ちも、安心と悲しさが混ざった言葉にできないはじめての気持ちだった。それは今もまだそうで、その感覚にいつか慣れて行くんだろうと信じていたのだけれど。良い想いも酷い想いも、赤い公園にはたくさん貰ったな、と本当に感じている。
聴いていなくても今まで聴いて頭に残っているから、頭ではずっと赤い公園の曲が流れている。「きっかけ」を思い出しては私達は津野さんの「たった一つのきっかけ」になれなかったのだなと思ってしまう。こんな想いを抱えているのに周りが楽しそうにしているのを見て、理不尽な怒りを感じた時には「KOIKI」じゃないな、悲しい時でも楽しいことで笑うのは罪じゃない、と励まされている。
昨日は津野さんがいちごが好きだったからと思い、いちごのショートケーキを食べた。それを買うのだって、出来事に便乗して食べたいだけでは?とか、それをして何になるの?とか余計なことが頭をぐるぐる回ってしまって全然買うまで決心がつかなかった。3つ乗っているいちごは一つだけ最後に残すか迷って、私は先に食べてしまったし、最初から最後まで想いながら食べたかったのに、半分くらいは母の職場の愚痴を聞きながら食べることにもなってしまった。全く気持ちにしか影響がなくて笑ってしまう。
津野さんの訃報、10/19に亡くなってしまったことは、私には全然いいことじゃないし、自分で死を選ぶことは全然綺麗でもないし素敵でもないし駄目な事だと思う。美化されるべきことでも無い。生きている中で、死ねばいいしという選択肢が私には無いので、理解も出来ないし、したくないと思う。世間的にも認めていいことじゃないと思う。だけど、それを選んだ津野さんだけは納得していて欲しいし、望んだことであったと思っていてほしい。自殺した人は地獄に落ちるとも言うけれど、楽になっていて欲しいし、笑っていて欲しい。どうか幸せでいてください。

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