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ガジャマダ大学・ジョグジャカルタ留学記#9 -イスラム世界へ(プロローグ)-

こんにちは。今日はふと感じた宗教の話を書き起こそうかと。

インドネシアに少しでも住んでみると否が応でも目に入るのは、宗教、とくに大多数を占めるイスラム教の日常への反映でしょう。全ての宗教のことを知っているわけではありませんが、イスラム教が他の多くの宗教よりも、「五感に感じる」表出が多いのは間違いのないことだと思います。
豚肉を売っているお店は本当に数えるほどしかなく(まだ食べていません)、授業中に談笑していた学生も時間になると学部に設置している礼拝室で礼拝をしっかり行います。夕暮れの街に響き渡るアザーン(礼拝への呼びかけ)を聞くと、ああ今日も1日が暮れようとしていると、なんとも言えない感情に心がざわつきます。まあ朝4:30にも鳴るのは正直つらいのですが。

大抵の日本人の感覚からすると、宗教の話は少し敬遠したいものなのかなと思います。外国人に「宗教は何?」「お寺と神社はどう違うの?」「シントウって?」などと聞かれて困るのはよくあるケース。
また、近代という時代が、啓蒙主義に見られるように人間の理性を重視するようになり、宗教を公共の場から退けようとしたことも、宗教という存在自体をより不可思議なものにしているのではないかと思います。高校で世界三大宗教やそれぞれの簡単な教義、由来は学ぶものの、それ以上の「なぜ?」は追求できません。「合理的」に行動しているはずの自分たちの常識が、時折通用しない。一体彼らは何を思って、何を感じて信仰しているのでしょうか。大学で、スピリチュアル・公共宗教・私事化・宗教ナショナリズムなど、宗教学の概論をいくらかは学んだものの、なかなか手触り感のある納得度の高い答えは考えられませんでした。
とはいっても、一つはっきりと学んだことは、当たり前のように見えますが、「宗教は日常のどこにでも存在しているものである」ということです。宗教を聞かれて「無宗教です」と答える日本人は多いのではないかと思いますが、そう決めつけるのは尚早と言えるでしょう。確かに、肩書きとして所属している宗教は存在していないかもしれませんが、それを持って「自分は宗教とは無関係だ」と言えるわけではありません。有名なお寺に入って「聖地へ来た」と感じたり、故人のお墓の前で真摯に手を合わせたり。きっとこれも「宗教的なもの」なのでしょう。宗教の統一的な定義が存在しているわけではありませんが、「パッケージとしての宗教」と「実態としての宗教」に意識的な区別が必要だな、と思います。

話はそれましたが、ここインドネシアでたくさんの人たちと関わる中で、イスラム教、ひいては宗教に対するスタンスがすこしずつ見えてくるように思います。いままで霧がかかっていたものに、少しずつ解像度を上げていく感覚。途中でイスラム教をやめて宗教を信じなくなった人の話。いろいろな規律の裏に、信仰心というのは実際どれぐらい存在しているのか。信仰の強い・弱いはどうやって生まれるのか。
どれも、ちょっとアンテナを貼って行動するだけで日常の中で考えられる・聞けるものですが、日本では非常に貴重なものなのだろうと思えます。これらに今まで学んだ既存の理論と重ね合わせて、「自分の言語」で宗教そのものに対するスタンスが見えてくるかもしれません。なんだか素敵ですね。

宗教に関する議論は星の数ほどあり、複雑さを極めているのは間違いのないことですが、「よくわからないもの」と切り捨てて、その実態を無視した思考・行動しかしないのは怖いな、不誠実だなと思えます。日本にいた時にも、知らず知らずのうちにそうしていたかもしれない。もちろん、これは宗教に限った話でありままずは 自分たちとの違いをまずは本気で理解しようとすること、そしてその背景にある社会的・あるいはその他の要因が見えれば、単純に自分の観点が増えることはもちろん、これからの行動の大切なヒントを与えてくれるかもしれません。もともと宗教は、人々の幸せ、平和のために生まれたものであるはずだから。
これからが楽しみです。


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