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「有難い」と感じる器

「有難い」と感じる器が出来上がっていないと、
「ありがとう」という気持ちは起こらない

という、一見当たり前の話を書きたいと思います。


「有難い」と感じるとき

例えば、こんな状況を想像してください。

気温38度の夏の炎天下。
どこまで歩き続けるのか・・・
いつ目的地に着くかも分からない。
あっ!向こうの方に自動販売機がある!
そして、そこには冷え冷えのスポーツドリンク!
迷わずそのスポーツドリンクを買うでしょう。
そして、冷え冷えの飲み物に「ありがたや~」と思う。

一方、暑くも寒くもない、かばんには水筒も入っている。
あと5分ほどで到着。
そんな状況なら、自動販売機があることにすら気付かず、
通り過ぎるだけでしょう。

有難いという気持ちは、
それを求めているから起こるわけです。
そして、求める気持ちが強ければ強いほど、
深く「有難い」と感じる。


教えを聴くということ

浄土真宗ではお聴聞(ちょうもん)が大事とされます。
教えを聴くということです。

でも、ただ聴くだけじゃなくて、
自分の心の中はどう感じているか、
よく観察します。

私の場合、正直、
心の底から「有難や~」と思えないことが多いです。
いつかそう思える日が来ると信じつつ・・・

仏法を聴く者として、
ただ仏法をたくさん知っていくことだけではなく、
同時に自分の心の中の器を覗いてみるのです。
「有難い」み教えを聴くだけでなく、
「私はどんな風に受け取っているかな」と。


信心のあり方

浄土真宗でいう信心のあり方は
「二種深信(にしゅじんしん)」と言われます。

仏法の「法」と、
教えを受け取る側(人間)の「機」。
「法」と「機」の両方がピタッとはまるイメージです。

いくら法を聴いても、
機(人間)がそれを受け取ることができなければ、
成立しないわけです。

深心と言ふは即ち是深く信ずる心なり。亦二種有り。
一には決定して深く、自身は現に是罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。
二には決定して深く、彼の阿弥陀佛の四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑無く慮り無く彼の願力に乗じて定めて往生を得と信ず。

善導大師『散善義』

お坊さんだからといって、
始めから信心が備わっているわけではありません。
自分の信心とまっすぐに向き合いながら進んでいきたいです。

最後までお読みいただきありがとうございました。
素敵な1日をお過ごしください。

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