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まるごとの自分

遠藤光太さんの『僕は死なない子育てをする』という本を読んだ。
最近よく行くマルジナリア書店さんで偶然目に留まり購入したものだ。

発達障害、うつ、子育てについて。
前半は辛い話が多くて、発達障害の診断は出ないし、奥さんはカサンドラ、強がってうまくいかないことが多く、よくある話のようにも思えた。
途中引用されている本が気になって、本田秀夫さんの新書を私も読んでみた。

自分がASD当事者であることは、偶然読んでいた細川貂々さんと水島広子さんの著作で気付き、本田秀夫さんがその分野についてまとまった著作を出していることに気付いていなかった。
そのため今回読めたことはかなり参考になった。
自分はなんとか非障害に留まっている自閉スペクトラムであることを再確認した。

後半、著者の生き方は力強さを見せ始める。
障害者雇用で自信をつけ、ライターとして独立しながら子育てと向き合っていく。
徐々にこの人は自分とそっくりだと感じた。
あらゆる書籍から情報を集めて世の中を理解しようとしている。
子育てや家族の在り方に自分なりの課題意識をもって、あるべき姿を実現しようとする素直すぎるまでの行動力。

最後の方に引用されていた言葉を読んで、ふいに泣きそうになった。
Be your whole selfという話だ。あらゆる属性をもったまるごとのあなたを、隠さずに出していいと。

あらためて思うと、私はあくまでASD的な興味でもって教員の仕事をしているが、その周りとのモチベーションのあまりの違いに息苦しさを感じている。
ここにいることはやはり難しいんじゃないかと最近は思っている。
結局自分はマイノリティであることを未だに受け入れられていないんじゃないか。
自分がこういう人間であることを隠そうとし、周りに求められるいい子になろうとして、それがやっぱりもう苦しいような気がしている。
周りにとって分かりやすい自分の属性を見出そうとして苦しんでいる。
当事者でもある本田秀夫さんの考え方は役に立つ。我々には得意なことも確かにあるのだ、苦手なことは助けを求め、できることをしていけば、人と違うことをして生きていっていいのだ。

昨日娘が珍しく読んでと言って、『きみはきみだ』という絵本を読んだ。
ろう学校の子供たちの写真の本だ。
ろうの人が昔は手話を使うことを否定され、聴者の言語を強制されたということになぜか娘は興味をもっていた。
聴者ばかりの世界でその言語を身につけず、手話で話すということは、正直厳しい道だろう。
でもそのように育った子供たちは、真に自分自身の主人公なのだ、人と違うからこそ、君は君なのだと。
一見当たり前のようでいて重い言葉だ。その世界の中でやはりどこまでも、君は君だ、ということ。
それを認めてやることができるのは、最後は自分自身なんだよ。

例えばこのブログも、書きたいことはあれど、自分をどういう人間と説明したらいいか分からず、立ち止まっていた。
私にはいろいろな属性があり、興味がある。当たり前だ。分かりやすい解説はいらない。言い訳しなくていい。
一人の人間の中にある無限性は、誰に説明できるものでもない。そういうことが見えづらくなっていると思う。もっと気楽に考えていいし、これでいいんだ、と思えたこと、光明だった。


マルジナリア書店さんのミートボールパスタ

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