最近の記事

追悼と鎮魂の物語

※『すずめの戸締まり』のネタバレ記事です。 『君の名は。』を観た頃、震災の記憶はまだ生々しくて、前々前世というふざけたタイトルの曲で流行った映画に、彗星が落ちて街がなくなるという描写が出てきたことに驚いた。 私たちが経験したこと、経験していることを、描こうとしている人が出てきたのだなと思った。 『天気の子』は劇場で観た。よく知っている東京の街の汚さが美しくて、その頃確かに実感としてあった異常気象に、ファンタジーの視点から向き合い、未来を描く物語はとても新しいように思った。

    • 広い場所へ

      春休みには、一緒にどこか出掛けられるように、休みをとっておいてねーと言った。 結局体調が悪かったりし、行きたいところも特に決まらないなぁと言っていた。 休みが始まって、どこ行こうかと言ったら、え、行くの。である。 いいよ、じゃあ。 以前の私ならここでパニックだ。 出掛けようって言ったのに、これだから、私ばっかりだ。呪いの言葉を吐いて暴れ回る。 しかし、私はこれでも成長しているのだ。 まぁ結局出掛けたがりなのは私だけであるし、二人ともが行きたい場所があるのではないのだから、そも

      • また始めるために

        3年間受け持った生徒が卒業した。 最後の1年はひどいものだった。 はじめの2年間で、自分と特性の近い自閉の人たちとクラスをつくり、周りにも認めてもらって、自分の実力に浮き足立っていた。 最後の1年で意外なクラスを任され、正直それでも余裕だろうと思っていたのだ。 始まってみるとそれまでは落ち着いていた生徒からの激しい反発、暴言。一人言うことを聞かないことで学級が成立しない。 これまで学んできた理屈、教材、どれだけ洗い直してやり直そうとしてもうまくいかず、周りからもどうして自分

        • 誰がケアするのか?

          昨日から娘が熱を出している。 一日中ぐったりとして、テレビをつけながらソファで寝ている。こんなことは滅多にないので、私も大人しく傍で本を読んで過ごしている。 おかげで最近隙を見つけては少しずつ読んでいた本を読み終えることができた。 谷川俊太郎選『永瀬清子詩集』は、これまた若松先生が取り上げていた本だが、正直この厚みの詩集をこれほどスラスラ読めたのは初めてだった。(谷川俊太郎の自選詩集は全部読めていない。) なぜかと思うと、女性としての生活の中で書き続けられた詩が、本当に分か

        追悼と鎮魂の物語

          20年

          新紙幣に興味をもっている娘が、前にお札が変わったのは20年前だから、ママは何歳だった…と数えていた。 お札が変わったことは覚えてるけど、それから20年もたつのか。 ではあと20年たったら何歳か、意外とまだまだ生きるな、と思ってしまった。 あと20年も生きたら、というのが長いと思ったのは、自分の一年一年で得るものが案外濃すぎて、あと20年もたったらどうなるん…と途方もないような気がしたからだ。 でもそれよりも、世の中の変わるスピードが速すぎて、あと20年もたつというのがそもそ

          幼少期の終わり

          小学校の高学年頃だったかと思う。 ある日朝起きたら、あぁ、学校に行きたくないな、このまま起きたくないなと思った。 その時何かが変わった、何かが終わったことを感じた。 学校では、声の大きい女子たちに同調しなければならないことが多くなり、自分が楽しいこと、自分が声を発せられる場所はもうほとんどないように感じた。やりたいことではなく、仕方ないからそのように過ごしていることが多くなった。 それまでの私は、自分がやりたいことをして、友達にも受け入れてもらえ、満足だった。自分のことが大好

          幼少期の終わり

          ねじまき鳥クロニクル

          岡真理さんの『ガザとは何か』を読む前に、京大で行われた講演会の映像を週末に見ていた。 気になったのは、「人文学の死」というタイトルだった。 今ガザで起きていることについて、人文学の視点から語ることができないならば人文学研究に何の意味があるのか、というような訴えには切実なものがあった。 全ては繋がっている、ということを人文学の知は教えてくれる。 その言葉を聞いたとき蘇ったのは、去年読んだ村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』だった。 三部作の長編で、ノモンハン事件のことを書いて

          ねじまき鳥クロニクル

          子どもの歌

          卒業シーズンになると思い出す歌がある。 前の学校で、小中合同の卒業式の時に、みんなで「はじめの一歩」という歌を歌っていた。中川ひろたかと新沢としひこの歌だ。 光の差し込む冷たい旧校舎の体育館で、最後にこの歌が流れ、子どもたちが「一歩」という言葉に合わせて足を前に踏み出す時、この瞬間を忘れないだろうという不思議な気持ちが皆を包む。 子どもの頃、中川ひろたかの「トラや帽子店」というバンドが私の住んでいた地域に来て、母が連れて行ってくれた。そのときのCDを今でも持っている。保育園

          子どもの歌

          読むと書く

          あなたが「書かなければならない」のなら、書くことを中心にして自らの生活を打ち立てよー 若松先生が紹介していて、昨日買ったリルケの本の言葉が、朝起きた時ふと頭にあった。 やっていられないような日々、やりたいのかよくわからないような生活の中で、書くことを私の生活の中心としたならば。 夫は歌うことを、誰のためにという次元と全く関係のないところで、自らの生そのもののように続けている。評価を求めることなく、途切れることなく、一人で何年も、自分で歌を歌い聴き続けている。 そのようなも

          読むと書く

          窓の向こうのガーシュウィン

          不思議な小説に出会った。 今まで読んだことのないような。何だろう、これは。 未熟児で生まれたエピソードから始まり、主人公の佐古さんは、自分は足りないという感覚を圧倒的に持っている。 人より足りないのが当たり前の身体、頭。その感覚から紡ぎ出される言葉は正直で、誠実だ。 ホームヘルパーのバイトを始めたが、ある一軒のお宅以外ではほとんど仕事を続けることができず、断られてしまう。何しろ言葉が最後まで聞き取れない。じゃみじゃみじゃみ。 そこには情けなさも憤りもない、この身体で生きて

          窓の向こうのガーシュウィン

          時の流れについて

          大学時代に使っていた校舎のことをふと思った。 先日行った大学祭で、今はもう使われていない校舎が展覧会の会場になっていた。 そこは私たちが学生の頃は現役で、我々は教室で授業に出たり、テラスで友達と話したりした。そこには我々の日常があった。 建物は今も古びたわけでもなく、そのまま残っている。でも人の行き来する気配のないその場所はもう死んでいて、過去のものになっていた。もう、あの頃は過ぎたのだ。 たった10年前のことがものすごく昔に思える。あの頃の私たちは確かにあったが、もうない

          時の流れについて

          もう一人の私

          シュタイナーの教育学の本を、若松先生のモクレン文庫で購入して夏頃に読んでいた。 シュタイナーの教育論というのは、人間の見方や歴史の見方自体を独自の視点から教えてくれるもので、ものすごく興味深い。 人間をどのように見ることから教育をどのようなものと捉えるのか、を問うのが教育哲学だが、ここまで独自の世界を一人で確立しているのはぶっ飛びすぎてて、笑える。 教育学は人間観から始まるとは本当なのだ。 ここまで独特の人間観から生まれる教育は、ものすごく大らかで宗教的な穏やかな歓喜に満ちた

          もう一人の私

          ケア不在の世界で

          どこにも出掛けず静かに過ごす冬休み、久しぶりにリラックスして娘の要求に応じながら過ごす時間の中で、ケアリングということを考えていた。 大学でケアリングという考え方に出会い、卒論もそのことで書いた。 当時バイトをしていた認知症介護の現場で、ケアの考え方が役に立つと感じての内容だった。 ケアの考え方で大切なことは、相手をケアすることで自分の存在意義も生まれる、互いに成長しあう関係性にある。 その後教員の仕事につき、子育てをして、ケアリングという理想はいつかどこかに置かれていた。

          ケア不在の世界で

          まるごとの自分

          遠藤光太さんの『僕は死なない子育てをする』という本を読んだ。 最近よく行くマルジナリア書店さんで偶然目に留まり購入したものだ。 発達障害、うつ、子育てについて。 前半は辛い話が多くて、発達障害の診断は出ないし、奥さんはカサンドラ、強がってうまくいかないことが多く、よくある話のようにも思えた。 途中引用されている本が気になって、本田秀夫さんの新書を私も読んでみた。 自分がASD当事者であることは、偶然読んでいた細川貂々さんと水島広子さんの著作で気付き、本田秀夫さんがその分野

          まるごとの自分

          がまくんとかえるくん

          アーノルド・ローベルのがまくんとかえるくんのシリーズを、子供の頃クリスマスプレゼントか何かで母にもらったのだけど、あまり読んでいなかった。 最近三木卓の訃報と共にこの本の一節を目にしたので、ふと気になって娘に読んだのだった。 子供の頃この本が正直あまり好きではなかった。 がまくんの人間臭く愚かでしょうもない姿に対して、かえるくんがあまりに聖人君子のように思えたので。 多分私は圧倒的にがまくんの側であることを無意識に自覚しながら、かえるくんのようになれたらいいのに…と思い上が

          がまくんとかえるくん

          服について

          古着を買うようになって1年ちょいになる。 去年の10月頃、よく行く高円寺で偶然見つけたgleefulという小さなお店で、学生の時以来に古着を買った。 それがすごく嬉しくて、新しい発見のように思ったので、何度かそのお店に通い、行くたびに気にいるものがあって買ったが、なんとその年内に移転してしまった。 それで路頭に迷っていたら、以前からTwitterでフォローしていたmoeさんが古着屋を始められて、たまにしか行けないがそちらに通うようになった。 行くたびに宝物のような服が見つかる

          服について