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ケア不在の世界で

どこにも出掛けず静かに過ごす冬休み、久しぶりにリラックスして娘の要求に応じながら過ごす時間の中で、ケアリングということを考えていた。

大学でケアリングという考え方に出会い、卒論もそのことで書いた。
当時バイトをしていた認知症介護の現場で、ケアの考え方が役に立つと感じての内容だった。
ケアの考え方で大切なことは、相手をケアすることで自分の存在意義も生まれる、互いに成長しあう関係性にある。
その後教員の仕事につき、子育てをして、ケアリングという理想はいつかどこかに置かれていた。
どうして自分はそんな卒論を書いたのか、教員としての専門は何なのかと問われると未だに分からないままだ。
今の仕事についてもうすぐ10年になり、そもそも自分がしたいことは何だったのかが気になっている。

新聞でケアについて書かれていたインタビュー記事が気になり、竹端寛『ケアしケアされ生きていく』を読んだ。
自分と同じ小学生の娘を育てる中で、ケアの考え方を実践してきた著者自らの体験をもとに書かれている内容は、私の知りたかったことの全てだった。

子供をケアする中で出てくるイライラや葛藤、目を背けたくなるような自分の至らなさ、多くの人はそれをなかったことにする。見ないようにして、子供を力でねじ伏せてしまう。子供の方が弱いから、力でなんとかできてしまう。そこにケアはない。
自分がされたことの再生産。または空気を読んで「ちゃんとしよう」とした結果。周りの雰囲気への忖度。ケアの不在はそういうところにある。
教育の現場でも、子育ての現場でもそうだ。
子供と対する中でのイライラや不安、見通しの効かなさに耐えることはそれほどにしんどい。
それは、満たされなかった自分自身の影と出会うことだからだ。
自分の影と向き合うことは恐ろしい、できるはずがない、自分には無理だ。正直私は怖気付いている。

でもそれは、自分自身の満たされなかった感情欲求に気づくことであり、ケアリング関係が与えてくれるギフトなのだという言葉を読んだとき、涙が出そうになった。あぁ、ケアとはこれほどまでに大きいものだったのだと。
私が満たされなかった私を抱きしめ、ケアするために、あなたと向き合う、あなたのことを大切にする。この関係性に留まる。私はこの傷を抱えた自分を丸ごと認めていい。なかったことにしなくていい。
それが私が知りたかったことであり、やりたかったことでもある。
そして、今抱えている教育の仕事と家族との関係の中で、そのことは実践できる。

私は誰にも言われていない忖度を少し押しのけて、空気を読むことをやめて、自分のやりたいことを少し大事にしてみる。
そのことから始めてみようと思う。



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