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窓の向こうのガーシュウィン

不思議な小説に出会った。
今まで読んだことのないような。何だろう、これは。


未熟児で生まれたエピソードから始まり、主人公の佐古さんは、自分は足りないという感覚を圧倒的に持っている。
人より足りないのが当たり前の身体、頭。その感覚から紡ぎ出される言葉は正直で、誠実だ。

ホームヘルパーのバイトを始めたが、ある一軒のお宅以外ではほとんど仕事を続けることができず、断られてしまう。何しろ言葉が最後まで聞き取れない。じゃみじゃみじゃみ。
そこには情けなさも憤りもない、この身体で生きているだけだ。
なんの望みもないようでありながら、何かを手にすることへの予感、いつの間にか求めていた何かに出会えたことの幸福感が徐々に物語を満たしていく。その気持ちに安易に名前はつかない。名前をつけたらおしまい。この気持ちは、悲しみや諦めや幸福は、只そういうものになってしまう。
その気持ちは、よく知っている。

中学生のとき、傷ついた、ということができなかった。代わりにつまらない思いをした、と言った。それが生きている私の、ここに存在する私の、せめてもの抵抗であり、気持ちだったんだ。
言葉は物事を安易に決めつける一方で、本当のことを表そうと抵抗したりもする。言葉には使う人が宿る。
これは19歳のときの私だと思った。
佐古さんの言葉で紡がれているこの物語には、あの時言えなかった私自身の思い、感覚、気持ちが宿っている。

自転車に名前をつける。私の小さな世界を守る。
ある日そのことを知っていた人が現れた。
自分がよいと思うものを作る人がいて、自分の表現を認めてくれる。
先生も佐古さんと同じ不思議な言葉を話す。同じ言葉を話す人との出会い。そうして少しずつ世界と繋がる居場所ができていく。
あんころは幸福という言葉に変わっていく。

宮下奈都さんのことを知ったのは、『静かな雨』の映画だった。私はそのとき流行っていたパラサイトを観ようとしていて、売り切れだったのか、仕方なくその映画を観たのだけど、本当に観てよかったと思った。
『静かな雨』の最後のシーンで、たい焼きを食べながら彼女を見つめる太賀くんの笑顔を見て、例え自分しか覚えていないとしても、大切な記憶はある、と思った。
自分しか覚えていないとしても、自分にしか分からなくても、私が見つけた、私が愛した、私が知っている、それは大切なものだ。
そういう気持ちをあたためながら生きていく。佐古さんの孤独に私は共鳴する。
私には私の、豊かな世界がある。



年末にカフェヤスタケにて

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