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「最後の審判」に関する一般のデタラメ千万な解説を正す

 この記事は《「万人救済」に関する聖書的根拠について》という記事の続編という位置づけになります。

《神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。》1テモテ2:4

「望む」と訳されている原語は「セロ」という語で、聖書中の他の多くの箇所で「御心」とか「意志」などと訳されています。
神が望み、そうする意図をもっておられるのは、「すべての人が」単に「救われる」ことだけではありません。
すべての人が「真理を知るに至る」ことです。これは神のご意思なのです。すなわちそれは神のご計画の一部に組み込まれているということに他なりません。

ところで、神はこのことをいつ望み、計画されたのでしょうか。
ご自分の独り子を贖いとして遣わし、人類を救い出すことを定められた時に他ならないでしょう。
ですから「すべての人」とは言わずもがな、文字通り「すべて」つまり、これまでの地上に生きた、そして今存在している全人類のことです。

「キリスト教」によれば、神を知るに至らなかった人間は、地獄で永遠の責め苦を味わわされることになっています。もしそれが真実であるなら、神の願いとご意思はどうなってしまうのでしょうか。
「キリスト教」の地獄に関する教理はこのテモテの聖句と真っ向から矛盾します。
何千という宗派に分裂している「キリスト教」によらず、聖書に示される一つの「キリストの教え」によれば、神はご自分の切なる「願い」を必ず果たされることが示されています。

神はどのように、すでにこの世に存在しないそれらの人々すべてが「真理を知る」ことができるようにされるのでしょうか。次の聖句にその答えがあります。

《他の死者は、千年たつまで生き返らなかった》黙示録20:5

「他の死者」とは、キリスト臨在時に、それまでに「既に眠りについた人たち」が一斉に復活する「第一の復活」に与るクリスチャン以外のすべての人です。

《神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。》1テサロニケ4:15:13,16,17

ここの表現をそのまま借りれば、「キリストに結ばれないまま、死の眠りについた人たち」の復活は千年後まで待たねばなりません。
つまり、福音など聞いたこともなかった時代や地域の人々を、千年後にこの地に【復活】させることにより、それらの人々は「真理を知る」機会が提供されことになります。

《この千年が終わると・・死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。 海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。》黙示録20:7,12-14

これが、一般に「最後の審判」と言われている場面ですが、ここで、どうしてもこの「最後の審判」について記しておく必要があります。なぜなら、その解説は余りにも酷い状況にあるからです。 

■ 「最後の審判」とはどのようなものですか。

教派によって若干の違いがあるのかも知れませんが、辞書の簡単な説明によると次のように記されています。

【キリスト教の教義上の、世界の終末における人類の罪に対する神の審判。キリストが再臨して死者も生者も裁かれ、天国と地獄とに所属が分けられる。】

もうこれだけでも聖書的には、もう滅茶苦茶というほどの間違い、勘違いがあります。
再臨時に死者が裁かれるなどということは聖書のどこにも書かれていません。すでに書きましたが、再臨時に生じるのは、クリスチャンを天国へ召すことだけで、その他の死者は据え置きです。

その点、もう一つ別の次の説明のほうが多少マシかもしれません。

【千年が終わると、最終戦争が行われ、サタンは滅びます。そしてキリストが再来し、死者を蘇らせて最後の審判を行い、人々を天国と地獄に分けます。
この物語の中の、再来したイエス・キリストが、蘇らせた死者を裁く場面が「最後の審判」と呼ばれます。】

いずれの場合も、千年期前の出来事と千年期後の出来事をごちゃまぜにしているということです。つまり時系列を混同しているということです。

この記事ではそれらを紐解いてゆきたいと思います。
まず、死者が裁かれるという趣旨の記述は千年王国後であり、そして千年後にキリストが再来することはありません。
キリストの臨在は西暦1世紀と終末期の2度しかありません。

《人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているようにキリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。》ーヘブライ9:27,28

さらに、臨在時にも千年王国後にも「人々を天国と地獄に分ける」などということは行われません。そのようなことは聖書中のどこにも記されておりません。
「その他の死者」と書かれている人々は復活しますが、彼らは天国には行きません。
千年期後に、「人々を天国と地獄に分ける」ことなどありようがないのです。

なぜならば、天国に召される人々は「千年間、王また祭司として仕えると言う目的のために招集されます。(黙示20:6)分かりやすく言えば《クリスチャン》とは、非クリスチャンを治め世話をして、罪のない完全な人へ導くために千年という限定された期間募集されたリハビリ要員スタッフであるという事です。

つまり「天国」の有効期限は「1000間」だけだからです。
ですから、千年後の時点ですでに天国は、役割を終えて抹消されるからです。千年期の終わりに天国に行く人など一人だにいません。
逆に天国に召されていた人々(花嫁)はその時天国を後にして地に降りてくることになっています。

《私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。》黙示21:2

《それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。
「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。
しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです》
Ⅰコリント15:24-28

冒頭で述べましたように、ノンクリスチャンの復活の目的は「真理を知る」ように助けることです。そのためのプログラムが準備されています。

《数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物が開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。》黙示録20:12

「死んだ人々は・・自分の行いに応じてさばかれた」と書かれていますが、死んでいる状態のまま、裁かれるわけではありません。死んでいる人間には何の「行い」もありません。

次の節で改めて繰り返しているように、復活して来た後、「数々の書物」を通して「真理を学び、その真理に調和して生きるか、それとも反抗的な態度を貫くかによって、裁かれることになります。後者の方は、もはや命の見込みが永遠にない状態、つまり「第二の死」に至ることになります。

《海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。》黙示録20:13

《死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。》
黙示録20:14,15

10節ではその「火の池」には他にも投げ込まれる者がいることが記されています。

《悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。》黙示録20:10

「火の池」とは地獄のことであるという見解はおよそすべてのキリスト教会が異口同音に述べているもので、文字通りに存在するものだと主張しています。
「死とハデス」そして「悪魔、獣、にせ預言者」は「火の池」に投げ込まれる、ということです。

【「ハデス」とは、罪人のたましいが行く領域、苦しみの場所で、私たちが一般的に「地獄」と呼んでいるのは、ここのことです。】
【火の池とは神に反抗した人類が永遠の刑罰を受ける最後の地獄を指しています。。これは硫黄の焼ける場所であり、そこで人々は終わる事のない苦しみを受けるのです。
イエスを救い主として受け入れずに死んでいった人々は一時的にハデス、よみに行き、最終的には火の池に投げ込まれるのです。】

さて皆さんは「」が硫黄の燃える火の中で苦しみを受けている状況を想像できますか。

完全に空っぽになった「一次的な罪人のたましいが行く領域」とされる「ハデス」が硫黄の燃える火の中で苦しみもがいている状況を想像できますか。

悪魔」は霊者であり、非物質の存在ですが、その者が、硫黄の燃える「火」(空気中の酸素が、水素や炭素と高温で激しく反応している状態(熱エネルギー)の影響で永遠に苦しんでいる状況を想像できますか。

」とは、国家のことです。しかし、その政府を構成するするのは人間ですが、個々の人間はすでに裁かれて不在ですので、残るのはその「概念」だけです。
国家と言う「概念」が、硫黄の燃える火の中で苦しみを受けている状況を想像できますか。

にせ預言者」というのは、これも一国家だと考えられますが、ともかく何らかの「法人」或いは「組織体」です。これも国家の場合と同様、実態の存在しない単なる「概念」以外の何物でもありません。
かつては聖書中で「にせ預言者」と呼ばれていた「概念」が硫黄の燃える火の中で苦しみもがいている状況を想像できますか。

「地獄」を積極的に広めている牧師などは「当然です」と答える方もおられるのかも知れませんが、大方の人にとっては、到底自分の理性は許さないとお感じになるのではないかと思います。

「あり得ない」とお考えになる方でしたら、少なくとも「地獄」が文字通りの場所だと主張するする人、或いは信じる人は、これらの疑問に対して、明確なビジョンと論理的で具体的な説明をする道義的な責任があり、それらを求めたいとお感じになるのではないでしょうか。

「火の池」や「ゲヘナ」「ハデス」などはすべて「比喩的な表現」以外ありえないでしょう。それらはすべて神から見て忌避すべき、あってはならないもの。そしてその永遠性は、2度と再び出現することがない、ということの保証となっているということです。

《「海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府(ハデス)も、その中にいた死者を出し・・》

ここに「死者」のいる場所として「海と死とハデス」の3つが挙げられている真意はよく分かりませんが、少なくとも「ハデス」は「墓」の意であり、人々の手で葬られた人々のことでしょう。
そして「海」にいる死者とは、葬られることもなく何らかの災難、事故などで命を落とした人、「死」はそれ以外の人々。ではないかと思います。
何れにせよ、これまでに生存したありとあらゆる人すべてということを強調するために、わざわざ「海と死とハデス」と表現されているのでしょう。



















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