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[キリスト教]の[魂]に関する教理の間違いを徹底的に論破する

 あなたにとっての「」とはどんなイメージですか。

まず、一般によく見られる「たましい」に関する解説を数例挙げてみることにしましょう。

«魂とは実体のない人間の一部です。これは人間の肉体が腐敗した後も永遠に存在し続ける部分です。創世記35:18にラケルの死が記録されていますが、この箇所からたましいは肉体とは異なった、肉体の死後にも存在し続けるという事がわかります。»

«死とは消えてなくなることではない。聖書には、死とは何なのかということについて次のように書かれてあります。 「彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき…」(創世記 35章18節)
「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に…」(ヤコブ 2章26節) 聖書は、死とは肉体とたましいが分離することであると語っています。造り主であられる神様は、人間を肉体とたましいを持つものとしてお造りになりました。»

改めて、再度お尋ねします。あなたにとっての「魂」とはどんなイメージですか。
今冒頭に引用した解説とほぼ同じですか。

では次に挙げる「神のみ言葉」が実際に述べるところからすれば、それは今一度確認してみる必要がありそうです。

上に引用したヤコブ 2章26節などは、解釈の違いでもない、ただの嘘です。
この聖句の「たましい」と訳している語は「ギ語:プシュケー(風、霊)」という語で、明らかに誤訳というか、意図的な偽訳と言ってよいでしょう。
《死とは肉体とたましいが分離すること」とか、神は、人間を肉体とたましいを持つものとして造られたなどとは聖書のどこにもしるされていません。

一応念のためにと言うか、他の幾つかの「創世35:18」の翻訳も挙げておくことにしましょう。

《ラケルは死にかかって命が絶えようとしたとき、》聖書協会共同訳
《息を引き取ろうとしたとき》フランシ スコ会訳
《ラケルが最後の息を引き取ろうとするとき、》新共同訳
《彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき》新改訳
《彼女は死にのぞみ、魂の去ろうとする時》口語訳

離れ去る」と訳されているヘブライ語は「ヤツァー」といいます。

この語は聖書中にトータルで1,069回出現します。「KJV(欽定訳聖書)」での訳語の内訳は以下の通り。
....out(出る) (518), ....forth(出す) (411), bring(持って来る) (24), come(来る) (24), proceed(赴く) (16), go(行く) (13x), depart(去る、出発) (10), miscellaneous(その他 ) (53).

多くの英語聖書では次のように訳されています
「・・her soul was in departing, (for she died)」
「彼女の魂は去ろうとしていた。(彼女は死んだ)」

どこにも「肉体から」分離するなどとは書かれていません。
ラケル本人が魂として、地上の舞台から去ったということです。

しかし新共同訳と新改訳では、このシンプルな単語を「離れ去る」と異なる2語を使って訳し、あたかも、「分離して、去った」というイメージを植え付けようとしているように思えます。

なぜなら「魂(ネフェシュ)は生きているその生命体そのものだからです。
そもそも生きた被造物は、肉体と魂とやらの「合体」などではないので、「分離」もありえません。これからこの陳述を、認めざるを得ない聖書的根拠を提示してゆきたいと思います。

旧約聖書中には「魂(ヘ語:ネフェシュ)」という語は全部で754回使われています。「たましい」に関する様々な特徴が窺える聖句を挙げてゆきましょう。
「KJV(欽定訳)」では「ネフェシュ」の殆どを「soul」と訳出しています。

《水には【生き物】(ネフェシュ)が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。・・うごめく【生き物】(ネフェシュ)・・種類にしたがって、【生き物】(ネフェシュ)を生ぜよ》創世記1:20,21,24
「魂」は水に群がり、空を飛ぶ。「魂」は種類に従って繁殖する。

《地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、【いのちの息のあるもの】(ネフェシュ)のために、食物として、すべての緑の草を与える。》創世記1:30
「魂」は緑の草などを食物とする。

《主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる【者】(ネフェシュ)となった。》創世記2:7
地の塵から造られた体を持つアダムそのものが「たましい」であると記されています。
man became a living soul (KJV)

《どんな名を彼がつけるか見るために、人のところに連れて来られた。人が生き【物】(ネフェシュ)につける名はみな、それがその名となった。》創世記2:19
アダムは陸海空にいるすべての「魂」の名付け親となった。

《しかし、肉は、その【いのち】(ネフェシュ)である血のあるままで食べてはならない。》創世記9:4
「魂」には血液が流れています。

《わたしはあなたがたの【いのち】(ネフェシュ)のためには、あなたがたの血の値を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人の【いのち】(ネフェシュ)を要求する。》創世記9:5
《魂》は血の値であり、故意に血を流したものは(殺したもの)は神から《魂》を要求される

《あなたたちと共にいるすべての【生き物】(ネフェシュ)、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。
あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての【生き物】(ネフェシュ)と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるし・・》
創世記9:10-12
神は、ノアの家族と、すべての動物の「魂」と契約を結ばれる。

《わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての【生き物】(ネフェシュ)、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。》創世記9:15、16も同様
「生きた魂」と「肉なるもの」は同義語であるという証明

《彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた【人々】(ネフェシュ)を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。》創世記12:5
《【人々】(ネフェシュ)は私に返し、財産はあなたが取ってください。》創世記14:21
人々そのものが「魂」であるという証明

《包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の【男】(ネフェシュ)、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。》創世記17:14
【魂】には包皮があり、イスラエルでは【魂】についている包皮は切り取られた。

《いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。・・さもないと滅ぼされてしまう。》創世記19:17
字義:「いのちがけで逃げなさい」字義:(あなたの魂のために逃げよ。)立ち止まるなら「魂」は滅ぼされてしまう。 「魂」が滅びるのだから、仮に死んだとしても、分離して出てゆく「魂」など存在しない。

《私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、【私自身】(ネフェシュ)が、おまえを祝福できるために。 ・・私の獲物を召し上がってください。【ご自身】(ネフェシュ)で私を祝福してくださるために・・、【私自身】(ネフェシュ)がおまえを祝福するために、》創世記27:4,19、25
「魂」はおいしいものを食べたがる。

《彼はヤコブの娘ディナに【心をひかれ】(ネフェシュ)、この娘を愛し、ねんごろにこの娘に語った。》創世記34:3
「心をひかれ」(字義:魂がうっとりした。) 魂は恋をします。

《エサウは、その妻たち、息子、娘たち、その家のすべての【者】(ネフェシュ)、その群れとすべての家畜、カナンの地で得た全財産を携え、・・》創世記36:6
エサウとその一族はすべて「魂」である

《ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の【心】(ネフェシュ)の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。》創世記42:21
弟ヨセフの【魂】の苦しみを見た。ヨセフの苦痛は精神的なものだけでなく肉体的な苦痛を味わった

《これらは、ラバンが娘レアに与えたジルパの子である。彼女がヤコブに産んだのは十六【人】(ネフェシュ)であった。》創世記46:18
「十六人であった」(字義:16の魂であった。} ジルパの子は16の【魂】を産んだ。 その子らが産まれたとき、どこからともやって来た魂と合体したものではなく、「魂」を出産した。

《ヤコブから生まれた【者】(ネフェシュ)の総数は七十【人】(ネフェシュ)であった。》出エジプト1:5
「七十人」(字義:70の魂)

《もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、【人数】(ネフェシュ)に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。》出エジプト12:4
「人数」(字義:魂の数。) 「魂」たちは、それぞれに分けられた自分の分の羊を食べます。

《第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる【者】(ネフェシュ)は、だれでもイスラエルから断ち切られる》 出エジプト12:15
発酵パンを食べる「魂」はイスラエルから断ち切られる。 肉体から分離されるという意味ではありません。「魂」は死刑にされます

《この期間中、どんな仕事もしてはならない。ただし、【みな】(ネフェシュ)が食べなければならないものだけは作ることができる。》出エジプト12:16
「みな」(字義:すべての魂) 特例許可の理由は、その期間もパンを作って食べないと「魂」は死んでしまうからです。

《だれでもパン種の入ったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その【者】(ネフェシュ)はイスラエルの会衆から断ち切られる》出エジプト12:19
魂は死刑となる

「殺傷事故があれば、【いのち】(ネフェシュ)には【いのち】(ネフェシュ)を与えなければならない。》出エジプト21:23
人の「魂」を殺したものには、その「魂」が代償として求められた。 「魂」は不滅ではない。

《人口調査をするとき、その登録にあたり、各人は【自分自身】(ネフェシュ)の贖い金を主に納めなければならない。 【あなたがた自身】(ネフェシュ)を贖うために、主に奉納物を納めるとき、・・》出エジプト30:12、15
「魂」は人口調査で登録され、その際、「魂」の贖い金納入の義務がある。

《あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする【者】(ネフェシュ)は、だれでも、その民から断ち切られる。》出エジプト31:14
たとえどんな「魂」でも、安息を守らなければ殺された。 「魂」は不滅ではない。

《【人】(ネフェシュ)が主に穀物のささげ物をささげるときは、ささげ物は小麦粉でなければならない。》レビ記2:1
「魂」は小麦粉を犠牲として主に捧げる

《もし【人】(ネフェシュ)が、主がするなと命じたすべてについてあやまって罪を犯し、その一つでも行った場合・・傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。》レビ記4:2、3
「魂」は過ってうっかり罪を犯すことがあり、その際、雄牛を捧げなければならない。

《【人】(ネフェシュ)が、汚れた獣の死体でも、汚れた家畜の死体でも、汚れた群生するものの死体でも、すべて汚れたものに触れ、汚れてはいたのに》レビ記5:2
「魂」は動物の死体などに触れると汚れる。

《【人】(ネフェシュ)が口で軽々しく、害になることでも益になることでも誓う場合・・》レビ記5:4
「魂」は軽々しく、口から出任せなことを言うことがある。

《【人】(ネフェシュ)がその身の汚れがあるのに、主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その【者】(ネフェシュ)はその民から断ち切られる。》レビ記7:20
「魂がその身の汚れ・・」 その身とは、人の身体のことではありません。 そもそも人には肉体と魂が別々に存在すると捉えていて、死ぬ時、肉体を分離すると考えているなら、その分離後の「魂」に「身」があるということになります。」
そして、その「魂」自体の身体は汚れることがあり、「魂」はいけにえの肉を食べることがある。

《「どんな血でもこれを食べる【者】(ネフェシュ)はだれでも、その者はその民から断ち切られる》レビ記7:27
血を食べた「魂」は死刑にされる

《海でも川でも、すべて水に群生するもの、またすべて水の中にいる生き物のうち、ひれやうろこのない【もの】(ネフェシュ)はすべて、あなたがたには忌むべきものである。》レビ記11:10
ヒレや鱗のない「魂」はすべて忌むべきもの。例えばマグロやサンマの「魂」と、タコやナマコの「魂」は区別されるべきだということが分かります。 それにしても、肉体を離れて分離した魚の魂に、なぜ「ヒレや鱗」が必要なのか

《以上が動物と鳥、また水の中をうごめくすべての【生き物】(ネフェシュ)と、地に群生するすべての【生き物】(ネフェシュ)についてのおしえであり、・・》レビ記11:46
人間を含め すべての動物はすべて「魂」である。

キリがないのでここまでにしますが、一貫して聖書が魂(ネフェシュ)とう語で伝えているのは、食べたり飲んだり、罪を犯したり、殺されたり、汚れたりなど、その生命体、個体そのものだということです。
逆に、肉体を離れて存在するとか、まして不滅だなどという概念は微塵も存在しません。

人が死ぬと、魂そのものが死ぬということです。
この明確な事実は、「陰府(よみ)」や「地獄の責め苦」などに関する教理に重大な影響を及ぼすはずです。

 最後に:

《しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分の【いのち】(ヘ語:ネフェシュ soul 魂)を罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分の【いのち】(ネフェシュ)の激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。》
イザヤ53:10,11

キリストに関する預言ですが、「魂」の激しい苦しみを経験されました。単に「肉体の」ではありません。
そして、仮に、死んだのは体だけで「魂」が不滅であるなら、神はわざわざイエスを蘇らせる必要などはなかったでしょう。

 

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