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預言の成就とされている聖書解釈を斬る-2成就に解説は不要

※ ↓この記事は「朗読音声付き」です。下記リンクから再生しながらお読みいただけます。

預言の成就を確認するのに解説も解釈も信仰も要りません。

聖書には様々な預言が記されていますが、当然のことながら、その中には、自分はその預言の当事者ではないということもあります。
例えばある預言は、対象として、ユダヤ人、クリスチャン、特定の地域の個人や国民に影響が及ぶものというものがあります。

では、仮に、明らかに自分はその当事者ではないと言える預言があったとして、その預言が現代、今この時に成就したとするなら、その影響は自分にはほとんど、あるいは全くないと思えるかもしれません。

では、自分に影響が無いことは、それが現実に起きているかどうか分からないでしょうか?
もちろん、その預言そのものも知らない場合、それが成就かどうか知り得なくとも、世界や身近で起きていることは遅かれ早かれ知ることになるでしよう。そしてそれが聖書預言の成就であるという事もほぼ同時に聞き及ぶことでしょう。
確認することと言えば、本当に聖書にそうした預言が書かれているかを確かめてみるだけです。歴史的な詳しい事や、因果関係などはよく分からなくとも、現実に起きていることと、預言の表現を比べて確認することは、全く聖書の知識の無い人にもできます。

聖書預言というのは、規模の大小はあるとは言え、決して些細なことが扱われている訳ではありません。
それどころかそれは「全地に住む全ての人に宣べ伝えるように」という至上命令を受けた情報の一部であり、全人類が知る必要のあるものという認識を持たれているものです。

終末に関する預言には、自分自身の生死が関わるような重大な出来事が示されております。
当然その種のものは、直ちにしかも多大な影響が自分に及ぶということになります。
そうした預言がひとたび成就したなら、聖書解釈など意に介さない人、「信仰なんていらない!」人、「宗教は好きじゃない!」人には、その影響がない。と言う事はないという事です。
言ってみれば【裁きの預言が成就する】と言うのは、言わば触った覚えのない神からのたたりを否応なく経験すると言うような事だということです。

予言ではなく天気予報の例で考えてみましよう。
テレビで、太平洋沖で台風が発生したと言うニュースを見ます。
数日後にその進路予想が示されます。雨量や風速などの勢力の情報も知らされます。
しかし、依然として、外は穏やかな気持ちのいい青空。こんな日はピクニックにでも行かなくっちやと感じさせるような気分にさせられます。

ところが、午後になると雲行きが怪しくなり、風が強くなり始めます。
たちまち雨が降り始め、風は瞬く間に強風から暴風になって行きます。
土砂降りの雨の中で、おちょこになってしまった傘を抱えてあなたは、ずぶ濡れになっています。その時点で、テレビの台風予想なんて気にしない、なんて言ってられますか。
この台風は、風速50mですという解説を人から教えてもらわないと、台風が来ていることに気が付きませんか。

冒頭に「預言の成就に解説も解釈も信仰も要らない。」と書いたのはそういう意味です。
教えを受けたり、小難しい研究をしなくても、「成就」というのは、もうそれは自分が体験していることだけで、分かる、いや、全容は分からないにしても、自分の身に起きていることは誰にでも分かるということです。

黙示録には、神の裁きが到来した、つまり成就した時の反応について次のような記述があります。

「地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。
神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか」(黙示6:15-17)

ここに列挙されている人々を簡単に表せば、ありとあらゆる立場の人々です。
そして、どう見ても、聖書や預言に無縁だったように思える人々です。
しかし、「成就」のとき、全てを悟るようにされるのです。
それまで、神も聖書もキリストも何も知らなかった故に、「何だかさっぱり訳分かんないけど、何かすごい力に自分が、殺されようとしてるような気がしてならない」などということはないのです。それでは「裁き」にならないからです。
「判決」のない「裁き」、罪状認否のない裁判は裁判ではありません。

ですから、仮にどれほど無知だったとしても、「なぜ罪に間われるのか」を理解するようにされた上での執行があるということです。
神の裁きに関する預言が「成就する」とはそういう性質のものだということです。

にも関わらず、たとえば、ある宗教団体は、「終わりの日」はもう100年以上前に成就していて、例えば、自分たち以外の他の宗派、宗教指導者たちは、すでに神に裁かれ不興を被り、神から捨てられていると断言しています。
しかし、そう決めつけられている当の本人たちには、当然のことながらその認識はまったくありません。
100年と言えば、人間の平均寿命をとうに上回っています。つまり、そんなこととはつゆ知らず、生まれて死ぬまで、神から自分になされた裁きに気づかなかったということです。

言い換えれば、当人にすら気がつかない程度にしか神は人を裁けないということになってしまっているのです。
「お前はすでに死んでいる!」と誰か(敵対する人たち)から解説、説明してもらわないと、自分に起きていることが何ーつ分からないということがあるでしょうか。
いや、あっていいものでしょうか。もしそうなら、「成就」など無に等しいということになります。

「終わりの日」に代表される「預言とその成就」の伝道活動で世界的に有名になったその宗教団体がいかに「聖書預言」というものを軽んじ、神と神の預言を激しく愚弄するものであることは、このたったーつの例からでもよくお分かりになるでしょう。


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