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棺桶

「こんなことやった店で飲む酒、美味しいと思う?」

母は少し不機嫌な顔をしてテレビを見ていた。

画面には緊急事態宣言のテロップと、カウンターの端から端までびっしりと遮った透明のカーテン。パーテンションで区切られたカウンターがあって、ぶっきらぼうに店主が「従うしかない」とインタビュアーに答えていた。
私はスマートフォンでパーテンションとビニールカーテンの材料を物色しながら、「仕方ないでしょ。やっとかないと持続化給付金の申請もできないんだし」と答えた。

私の母はスナックのママをしている。80歳を迎え、今でも現役だ。片田舎で細く、長く続けて創業50年を越えた。その地域の同業で知らない人はいない。
 「ほら、家が貧乏で学校も行けなかったし。学があるわけじゃなしさ…唯一の取り柄って、酒が呑めることだけだったの。あんたのねーちゃんもいたしね。生きていかなきゃならなかったんだよ。右も左も分かんないけど、とにかくやるしかなかったから」

 二人の姉を抱えて家を飛び出し、生きていくために始めた居酒屋。そこで父と出会い、私が産まれた。10年ほど経って、バブルの恩恵と風営法の大改訂がきっかけでスナックへと転向し、今の場所に店を構えたのがが1982年の終わりごろだったと思う。
バブル絶頂期、母は年頃になった娘3人を巻き込んで店を切り盛りした。当時私は客と飲み明かし、そのまま専門学校へ行って、余りの酒臭さに講師が激怒して単位を落としそうになったこともあった。「アンタたちはほんとに扱き使ったわ」と、母は今でも申し訳なさそう思い出して笑う。小さい頃は病気がちで、熱を出してもお客のために店を開ける母を恨んだし、思春期には「水商売の娘」というレッテルが、見えない壁を生んで、苦しんだこともあったが、今はむしろ、その時の経験があって、自身の人間性やプラスの性格が養われたと思っている。

兎に角飲んだ。笑って泣いて、色恋沙汰も喧嘩も絶えなかった。泡吹いて倒れるやつもいて、お巡りさんや救急車もよく呼んだ。大っぴらに書けないこともあったが、今振り返れば、みんな元気だったよなあと懐かしく思う。店の客同士や、時にバイトの女の子と客がくっついたり離れたりしながら、私が知っているだけでも何組かの夫婦が未だに添い遂げている。この店から生まれた縁で始まった事業もあったし、潰れた会社もあった。

きれいごととそうでないことが交錯しながら、いろいろな思いが寄せ集まって、今の店がある。そんな店と母は、一心同体なのだ。ぶっちゃけた話、客が来なくても店は開けていたい。それが母にとって生活の一部であり、もっと言えば母自身の新陳代謝の一部でもあるからだ。

大晦日、母は少々体調を崩し緊急搬送された。その時、かかりつけである国立病院に受け入れを断られた。身近に当事者がいないせいか、どこか他人事だと思っていたが、「その波」はすぐそこまで来ていることを思い知った。
幸い受け入れ先が見つかり大事には至らず、一週間ほどで容態は回復し自宅にいるが、元気はあまりない。

人は必ず死ぬ。いつかいなくなる。
出来ることなら、店を母の棺桶にしてやりたいと思っている。私に出来ることといったら、この店を一日でも長くもたせることと、見届けることくらいだ。

叶うことなら、みんなとくだらない話で酒を酌み交わしながら、往生させてやりたい。死んで来なくなった客のボトルを抱えて、みんな天国に持っていけばいい。

そんなことを思いながら、私は取り寄せたビニールカーテンにハトメを打ち込んだ。

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始まれば必ず終わりが来る。
でもその終わり方が、こんな目に見えない訳の分からないやつのせいであってはならないと思っている。

始まれば必ず終わりが来る。
だから早く終わってくれ。ママが元気なうちに。

(棺桶-Fin-)

読んでいただきありがとうございました。これをご縁に、あなたのところへも逢いに行きたいです。導かれるように。