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いちども引退していない人 門脇真由美・近況レポート@関西CSC

先日、門脇真由美さんの話を聞きに行ってきた。

門脇さんは、2012年デビューのガールズケイリン1期生、昨年7月、11年にわたる現役生活を終えた。実は、デビュー半年後くらいの時期に、一度、練習を見学させてもらいに行ったことがあり、ずっと気になるレーサーのひとりだった。引退のニュースを聞き、もう一度、話を聞きに行かなければと思った。アマ競技経験の豊富な門脇さんにとってガールズケイリンの世界はどんなだったか、仕事としてどうだったか、いろいろ聞きたいことがあった。最後のレースから半年、ちょっと落ち着いた頃合いかな、ということで連絡し、時間をとっていただき指定された関西サイクルスポーツセンターを訪れた。

関西サイクルスポーツセンターは大阪府の南部にある自転車のテーマパークで、その中にバンクがあり大阪支部所属の競輪選手やアマチュアの人たちが練習場として使っている。私の住む町からはかなり距離がある縁遠い場所で、11年前の門脇さん練習見学以来、2度目の訪問になった。

そもそも11年前に、なぜ見学させてもらうことになったか。00年代終わりくらいから、競輪界ではにわかに女子競輪復活のうわさが流れるようになっていた。各地の競輪場廃止が続き閉塞感漂っていた競輪の世界で久々に耳にする未来に向けての変化だった。研究対象としての関心がわき、追いかけ調査を始めた。女子再開が正式に決まると、競輪学校(現・養成所)の新生女子1期生の入試も見に行った。伊豆修善寺の山奥にある学校で行われた実技試験の時、400メートルバンクのスタンドに黒いスポーツウェアを着て何とも目立つ雰囲気の中年男性が座っていた。独走試験が始まると、ストップウォッチを手に受験生全員のタイムを計測し、何分何秒と周りの人に大きな声で教え始めた。門脇さんの師匠、城本量徳さんだった。日に焼けた精悍な顔つきで見かけは近寄りがたく、体育会的な厳しさを漂わせていたが、話しかけると大変気さくなおっちゃんだった。知る人ぞ知る元トップアマ競技者で、数多くの教え子を競輪学校に送り込んだ名コーチだ。試験を見ながらいろいろ質問すると、初対面の私のようなよくわからない人間にもなんでも詳しく教えてくれた。

門脇さんデビュー後、彼女が関西の競輪場に出走する時に観戦に行くと、金網前に陣取って声援を送る城本さんの姿をよく見かけるようになった。最終日には必ず来て、レース後は門脇さんを自動車でつれて帰っていた。そんな機会に何度か話すうちに、練習を見学させてもらう、ということになったのだ。その時は、城本さんに「いっぺん乗ってみろ」と言われて、初めてピストにまたがって恐る恐るバンクを一周したり、バイク誘導の後ろに乗せてもらって急角度の斜面を競輪選手と同じスピードで駆け抜ける気分を味合わせてもらったりした。本当に貴重な経験だった。

あれから11年。前に来た時と同じ2月の訪問になった。

前回同様、最寄りの河内長野駅前で城本さんの車に拾ってもらうことになった。待ち合わせ場所に着くと、城本さんは「やぁどうも久しぶりやね」と笑顔で迎えてくれた。コロナ以降、自分も競輪場に行く機会が減り、挨拶するのも数年ぶりだったが、驚くほど変わらない。もう70を越えられたそうだが、若々しい。後部座席に静かに座っていた門脇さんの横に乗せてもらい、近況をうかがいながらセンターのバンクまで向かった。

引退されてから2か月くらいの求職期間を経て、競輪とは全く関係のない事務系の仕事につかれたそう。この日はお休み。引退後も、選手時代と同じところに住み続け、休みの日には「健康のため」練習を続けているということだった。

再就職にあたって、JKAなどから仕事の紹介は特になく、仕事探しは「普通にアプリで」されたという。「競輪に関わる仕事、いろいろ探したんですけどね…『お祈りします』の返事ばかり…」アプリの求職サイトには、pist6のスタッフ募集もあったが応募してもダメだった。「え、わたしを落とすのか?と思ったけど」と苦笑されてた。後にまたアプリを見ると、まだpist6の募集は掲載されていたそう。その他、岸和田競輪場のバイトもダメだった、とのこと。競輪関係の仕事では、競輪を知っている人材は求めていない、ということなのか。

サイクルスポーツセンターは丘陵地帯の上にある。バンクに着いたのは昼前。何人か練習している人がいた。練習の準備を始めていた4人くらいの若者は、皆、城本さんの門下生で来年の競輪選手養成所受験を目指している。城本さんの新しい名刺には「競輪学校入学塾」と明記されてあった。月々幾ら、学校に合格したら幾ら、と最初に契約書を取り交わしてコーチしている。養成所の試験合格は「東大より難しいからね」と城本さんは言うが、それは全然大げさではない。狭き門で、何年も浪人して挑戦する人も少なくない。バンクの中に、見るからに体格のいい若者がいた。今年の受験に合格した土生智徳さんで、弟の敦弘さんは先にデビューしてすでにS級で活躍している。兄さんの方も、実業団で野球選手をしていたそうで、いかにも強い選手になりそうなオーラをまとっていた。

門脇さん以降、弟子は全員男子。そういえば、以前来た時には、いまどきの女子中学生感丸出しの女の子がいたのを思い出した。あの子はどうしてますか?と聞いて見ると大学までは競技を続けたがプロへの挑戦は辞めたそう。門脇さんの話では、彼女の場合、父親の方が前のめりで、それが嫌だったんじゃないかということだった。息子に「雄一郎」ってつけるようなお父ちゃんだったらしい。「あの子の頃は、まだガールズなかったけど、今だったら優香とかつけてるかも」と笑っていた。20年後のガールズには、碧衣とか水菜とか名付けられた新人が走っているかもしれない。

バンクのホーム側に観戦用スタンドがあり、その下の、野球場でいえばベンチのようなスペースが練習する人たちの控室になっている。屋根はあるが屋外のため、寒さ対策に石油ストーブが何台かおかれている。練習着に着替えてきた門脇さんは、そのエリアの一番隅っこに座って準備を始めた。おそらく30年くらい通い続けている「いつもの場所」だ。

ヘルメット、サングラスをつけて競走用自転車ピストにまたがる。現役時代にレースで使っていたもので、普段はバンクの倉庫においてある。

練習が始まる。

城本さんのバイク誘導で、塾生4人と一緒に一列に並んでの20周の周回練習。言うまでもなく、他の4人はこれから「東大より難しい」試験を目指す、現役バリバリの受験生たちだ。全員男子。そんな人たちと一緒のメニューをこなしている様子にとても驚いた。「健康のため、ダイエットのために休みの日に自転車にのっている」と聞いたときは、城本さんと一緒に若い人たちの練習を見たりしてるのかな、くらいに思っていた。しかし、全然違った。

「こんなハードな練習続けてるんですか?」と息を整えている門脇さんに聞くと、「今日は取材が来てる(私のこと)から、城本さんいつもより張り切ってるんですよ」と言っていたが、たぶん、普段とそんなに変わらない内容だろう。

控室スペースの片隅で門脇さんにいろいろ話を聞いている間も、城本さんは「ストーブ当たってよ」とか「お菓子食べますか」「コーヒー飲んでよ」などといろいろと話しかけてくれるが、門脇さんはうんざり顔で「もういいから、今日は私の話なんやから」とあしらうようにされる。「城本さん、すぐ自分の話になるから」と愚痴っていたが、おせっかいな父親を鬱陶しがりつつも実際は仲のいい娘と父親のような感じだ。(こんな風に言われると門脇さんはうれしくないだろうが。)

周回練習はいわゆるアップで、その後、個別のバイク誘導練習が始まった。養成所入所を控えた土生さんも含め、ひとりひとり城本さんがバイクでひっぱっていく。メニューはだいたい決まっているみたいで、簡単な指示がなされるだけで次々に進んでいった。疾走する自転車をバンク内から見る機会なんてそんなにないから、周回練習の時のスピードでもとても速く感じたが、個別誘導ではさらにスピードアップしていた。選手を引退した人であるはずの門脇さんも、ハイスピードのバイクを猛追する。その迫力に圧倒される。

驚いている私に城本さんは「児玉碧衣とかとそんなに差はないんですよ」なんてことをおっしゃっていた。アマチュアの誰々は、古性選手よりスピードだけなら全然速いんだ、みたいなことを軽口でよく話される人なので、言葉そのままで受け取っていいのかどうかは分からないし、プロの世界では「そんなに差はない」の「そんなに」がおそらく大変大きな違いになるのだろうけど、少なくとも素人の目には現役プロ選手の練習にしか見えなかった。


(安いスマホ写真では全く迫力が伝わらずにすみません)

「7月8月はメンタルがやばかったんです」と門脇さん。

引退してすぐは、かなりの喪失感に襲われ、不安な状態が続いていたそう。彼女は、アマチュア競技者時代にも一度、引退をしている。トップ競技者として競技に専念する生活をやめ、常勤の仕事につくことを選んだ時だ。「その時と比べてどうだったんですか?」と聞くと、あの時は、かなりあっさりした気分で、精神的に引きずるようなことは全くなかったという。

「今、すごく寒い中でレースをしてるみんなの動画を見たら、もうあんなしんどいことしなくていいのか、というホッとした気持ちと、うらやましいな、という気持ちが両方湧いてきて…」と複雑な心境を話してくれた。「もっと走りたかったな」半年経っても、その気持ちは変らないようだった。当たり前のように定期的に顔を合わせていた選手たちと、急に会えなくなったのも、とても寂しく感じているそう。

辞めてしばらくは本当に何もする気になれず、これではダメになる、何かしないと、ということで何とか仕事を探し「健康のために」練習も再開した。この「健康」には、心の健康、ということもあったのだろう。すぐに経済的に困ることはなかっただろうから「しばらくのんびり旅行とかしてすごしたらよかったんじゃないですか?自転車で旅をするとか」と言うと「あー、ああいうのは私は絶対無理です」とのこと。自転車で日本一周とかしている人とか、しまなみ海道を自転車で走る人とか「ほんとにすごい」と思うそう。考えるだけでしんどそうだ、と。こっちからすると、バンクで爆走する方が何倍もしんどそうだけど。ちなみに、道路での街道練習は普通にされている。今でも。

塾生それぞれに城本さんが簡単なアドバイスみたいなことをして、2~3時間ほどで練習は終了した。城本さんは毎日、門脇さんは休みの度に、これを続けているのだ。

門脇真由美さんは、新生ガールズケイリンを独特の立ち位置で経験された、ガールズケイリン全体にとっても特別な意味を持つ貴重な選手だった。女子復活が決まった2010年の時点で、すでに社会人経験のあるしっかりした大人だった。1期生には、他にも門脇さんより年上で主婦からの挑戦として話題になった高松美代子さんがいたし、結婚出産を経た今でも現役バリバリの加瀬加奈子さんも30歳を越えてのデビューだったが、アマチュア自転車競技者としてのキャリアは門脇さんがダントツだった。後の五輪大臣・オリンピックの申し子、橋本聖子とアトランタ五輪代表を争ったほどの選手だったのだ。(詳しくはwikipediaを参照されたし。)

戦後に始まった競輪だが、最初は女子も開催されていた。それが廃止となったのは前の東京五輪が行われた1964年だった。それから半世紀近く、女性が自転車競技でお金を稼げるなんて想像すらできない時代が続いた。スポーツ自体、基本的に男性中心の文化だったが、自転車は特にその傾向が強かった。競技スポーツとしてはマイナーながらしっかりとしたプロの世界のある特殊なスポーツの競輪は、まさに男だけの職業世界となっていった。私が見始めた90年代初頭でも、女子の復活など想像もできないくらいだった。

しかし、その頃からさまざまなスポーツで男女平等化の動きが加速していく。オリンピックの自転車競技も、女子にも門戸が開かれるようになった。ただ、たまたまスケートで有名だった橋本聖子の参戦で話題になっただけで、競技世界自体はまだマイナーだった。男子の自転車競技者層の厚みは、競輪という職業があってこそで、そんな職業選択ができない以上、機材や練習場所など参入障壁が高めのスポーツに取り組もうとする女性はまだまだ少なかったのだ。ガールズケイリンの復活で、その状況は一変した。各地の予選すらできないため、長らく実施していなかった国体での女子自転車競技も、ガールズの復活を受けてスタートし、大学や高校の自転車競技部に入部する女性も増えていった。(このあたりの経緯や歴史は、拙著を参照ください。)

女子の自転車競技者、あるいは他の競技をしていてもスポーツで食べていきたいと考えていた女性で、職業選択のタイミングが「ガールズ復活」と重なった人たちは幸運だった。スタート時は、数年でつぶれるかもしれない、などと言われており、どんな人にとっても先の見えないギャンブルだったのは間違いないだろうが、それでも体力的に伸びしろの多い時期に挑戦できたのだから。

門脇さんも、若い時にデビュー出来た人たちや、ガールズケイリンという職業が初めからある今の子たちがとてもうらやましい、という。「練習すればするだけ強くなれるんやからね」と。高校時代に自転車競技を始めた門脇さんだが、親からは「大学は無理」と言われていたそうで、卒業後は就職しか選択肢がなかったそう。「たまたま宮田に拾われたからよかったけど」というように、実業団のチームを持つ宮田自転車に就職するも、ロード競技中心で脚質にあわず、どうしようか迷っていた門脇さんを、城本さんがスカウトして今日に至った。宮城県出身の彼女だが、河内長野生活の方がずっと長くなった。ちなみに、門脇さんは、薄口の大阪弁で話される。城本さんの言葉も一応は大阪弁だが、独特のイントネーションだ。見かけは、ザ・大阪のオッサン、という感じだが、実は九州の出身で競技生活の流れで大阪南部に暮らすようになられたのだ。師弟共々、大阪南部は元は異郷の地だ。

トップアマ競技者として引退して介護の仕事などをしていた門脇さんにガールズケイリン復活のニュースがやってくる。城本さんは、全然乗り気じゃなかった彼女の背中を無理やり押した。(そのあたりの経緯は、伊勢華子『健脚商売』中央公論新社松瀬学『ガールズ☆ケイリン―夢挑戦』東邦出版などに詳しい。)

数年前には想像もしていなかったプロの競輪選手としてのデビューを果たした門脇さん。デビュー後、数年は経験を活かし流石の活躍をされた。優勝も3度勝ち取った。大本命、という感じではなかったが、本命選手に土をつけることも多く、穴狙いのファンにはしばしば番狂わせを見せてくれる人気の選手だった。しかし、現役生活の後半以降になると、なかなか勝ち負けに絡めない状態が続くようになった。やがて、代謝の対象になるだろうとみられるようになっていってしまった。

悪い成績が続いた頃は、やはり大変もどかしい気持ちだったそう。

練習でも若い時には簡単についていけたスピードにちぎれてしまうことも増えた。「今から思うと、年齢のせいなんだろうなとわかるけど、当時はそういうことは考えないようにしてた」から、ただただ練習に打ち込んだそうだ。とにかく練習すれば乗り越えられる、と信じて。そのため競輪ファンには有名な「点数が掲載されているサイトの情報」などは極力見ないようにしていたそう。「気が小さいから、気になって寝られなくなったりするんで。」そうやって、レースには何とか前向きに参戦し続けてきたが、ガッカリすることもたくさんあったそう。「スタートをとって周回してて、後ろの選手に車間を切られた時はショックだったなぁ、そこまで競争相手として眼中にないのか…」というような。

仕事としての競輪選手の「戦い方」には、いろんなタイプがある。少しでも長く現役を続けることを一番の目標にするなら、点数計算を厳密にして、適宜休場するなどして点数を維持するようにつとめる、というのも一つの選択だ。しかし、門脇さんは全くそういう計算をしなかった。今、レースで走った日々を懐かしく感じるようになって「もうすこし賢く走ってもよかったかな」と後悔されている様子だった。だけど、それは、真っすぐな性格の門脇さんには似合わない「戦い方」だっただろう。

実は、今回、門脇さんに連絡するにあたって、ちょっと心配していたことがある。それは城本さんとの関係がどうなっているか、ということだった。現役時代の最後の方、競輪の公式サイト(keirin.jp)を見ると、門脇さんのプロフィールの「師匠」欄から、以前に載っていた城本量徳という名前が消えていたからだ。もしかしたら、仲たがいされて師弟関係解消とかになっているのかも、それだったら寂しいな、と心配していたのだ。この通り、強固な師弟関係はそのままだった。門脇さんによれば、競輪選手の名前しか書くな、みたいな空気になってきて、面倒だから外した、とのことだった。

競輪界の師弟関係には、いろんなタイプがある。門脇さんたちのように強い絆の例もあれば、入試の時に師匠の名前を書かなければならず、そのために形式的に名前を借りているだけ、というようなのも。良好だった関係が、途中でまずくなるなんてのもいくらでもあるだろう。知らなかったが、門脇さんが「師匠」になっている選手もいたそうだ。競輪選手をめざして練習するためには、バンクを使う必要があるが、各地の競輪場はなかなか敷居が高く、プロ選手の弟子になっていないと使わせてもらえないらしい。城本さんのところで受験に挑戦していた男子で、他のプロ選手に知り合いもいないようだったから「それなら私が名前を貸そうか」ということで、形式的な師弟になったそうだ。「そういう閉鎖的なところ、なんとかした方がいいと思うけど」と言っていたが本当にその通りだ。施行者、選手会からすると、素人に練習させてケガでもされたら大変だ、というのも当然あるのだろうけど、真剣に取り組んでいる人にはもっと開放されるべきだろう。

これまで書いたように城本さんは競輪選手ではないが門脇さんにとって本当の意味での師匠だ。門脇さんが、富山競輪で落車してしまった時のこと。医務室に運ばれたが幸い大けがではなく「自分ひとりで電車で帰れるな」という感じだったそう。しかし、城本さんに連絡してもらうと、もうすでに自動車で石川県の小松まで来てしまっていたのだという。レース中継を見て、すぐに迎えに飛び出したのだろう。師匠が弟子を思う気持ちは大変深い。と、こんな「熱い」面があるかと思うと、引退に関しては、意外なことに、とてもとてもクールだったそう。

「私の最後のレースも忘れてたんですよ」という。

去年7月の玉野競輪場での開催が門脇さんの引退レースとなったが、城本さんはまったく気にもしていなかったらしい。競輪選手にとって最後のレースは特別な意味を持つもので、身近な人たちが応援に来たり、他の選手たちが集まってきてねぎらったりするのが普通だ。もちろん、門脇さんの時も、記者がインタビューして記事にもなっている。しかし、最後の開催から帰ってきて、しばらくして城本さんに「もう引退したの?」みたいに言われて、あっけにとられたのだそう。この話には私もびっくりした。

「古性だって、児玉碧衣だって、誰だってね、いつかは引退せんとあかんのやからね、しゃあないわね」と城本さんはけろっとおっしゃる。だから気にしても仕方がない、というのだ。城本さんご自身も、いつ引退したか分からないのだそう。トップアマ選手として活躍する状態から、コーチ業中心に変わっていかれたのだが、おそらく練習はずっと続けていて、あの時が選手として最後だった、みたいな瞬間がなかったようだ。「でも、門脇さんは、引退の時、かなり落ち込んではったみたいですよ」と言うと、「そんなんね、時間が解決するんですよ。たとえ親が死んで悲しくてもね、いつかはみんな忘れるでしょ、そういうもんですよ」という超あっさりとした答え。まぁ、確かにそんなものかもしれないけど、それでもなぁ…。門脇さんは、引退して宮城県の故郷に帰ることも少し考えたが、こちらで仕事を探すことにした。そして練習も続けた。城本さんにとって、門脇さんとの関係は引退後も確かにたいして変わらなかった。城本さんは元トップアマのプライドもあり、競輪という仕事を特別視していないのだ。「自転車が好きだから乗ってる、それが本当の姿でしょ。金稼ぐとかのためじゃなくてね」と言っている。レースもないのに「何のために」練習しているのか、などというのは愚問なのだ。乗りたいから乗っている、それだけだ。

「出げいことか、もっと行っておけばよかったかな」ということも、門脇さんはちょっと後悔しているそう。現役時代も、レースに参加する以外は、ずっとここ関西サイクルスポーツセンターのバンクで城本さんとの練習を続けてきた。女子は彼女ひとりだった。城本さんの練習は、競輪学校合格に焦点をしぼったものだ。試験のメインは、1000メートル独走タイム。ひとりでどれだけ速く走れるかの能力が問われる。自転車競技の基本中の基本だが、女子選手がもっといる環境で、もう少し「競輪」の練習をしてもよかったかも、という反省だろう。「他のところで練習したら、お師匠さん面白くなかったんちゃいますかね」と私が言うと、離れたところで男子の塾生たちにアドバイスしている城本さんの方に目を向けながら「まぁ、そうかもしれませんね」とつぶやいた。行きたいと伝えていれば、止めるような感じでもなかったようだが。

スーパーポジティブな城本さんと、あれこれ考えがちの門脇さん。二人の性格はまさに正反対で、その凸凹ぶりは、ある意味名コンビの見本のようでもある。コミュニケーションの仕方も対照的で、誰とでもすぐに親しげに話すことができる師匠に対して、門脇さんは、そういうのはとても不得手だ。こちらから質問すると普通に答えてくれるが、親しくない相手に、自分から積極的に話しかけるのは難しいようだ。これも、後悔の種らしく、現役時代にもっと他の選手に自分から話しかけたらよかったな、と今は思うそう。他の選手たちと遊びに行ったり、ご飯を食べに行ったりすることも少なかった。たまに誘われると喜んで参加したが、自分からは誘えなかったという。

開催中は男子選手とも一緒になる。そのため、女子選手と男子選手の職場結婚はとても多い。当然だろう。でも門脇さんは、友だちとして親しくなった男子選手も特にいなかったという。選手たちがアップのために自転車に乗るローラー練習場で、男子選手が乗っている台に自分から近付いていって「次空いてますか?」(※)と話しかける若いガールズ選手たちを「積極的ですごいな」と思っていたそう。積極的もなにもとても普通な感じに聞こえるが、門脇さんはそれができず、いつも、空いている人気(にんき)のない台に乗っていたのだという。ちなみに、両側に手すりのある台が人気で、片方の壁に手がつけるため手すりがない隅っこの台は人気がないらしい。壁際で黙々とローラーを踏む門脇さんの姿が目に浮かぶようだ。

「久しぶりに競輪の話ができて楽しかったです。」

引き上げる時、門脇さんに言ってもらえた。会えるのが当たり前だった選手の皆とも、会うのもなかなか大変になり、競輪が縁遠くなった状況が、やはりとても寂しいよう。現役時代、言ってもないコメントを記者に盛って書かれて「何なん?」と不快に思ったという話もされていたが「コンドルのTさんにも、もう会えないのか、さみしいな」とつぶやいていた。

門脇さんにとって、競輪の仕事は賞金も十分もらえて、やりがいも感じられる良い仕事だったようだ。競輪選手と言えば、高級車、女子なら高級ブランド品なんてイメージも少しあるが、門脇さんは自動車には全く関心もないそうで、ブランド品なんかもあまり買ってないようだった。自分へのご褒美として記念にバックか何かを買おうかと思ったことがあったそうだが、結局やめにしたらしい。介護の仕事をしていたアマチュアの時から、ずっと同じアパートの部屋に住み続けているとのことだった。

最後にお礼のあいさつをすると、城本さんは「タイトルは『情熱は永遠に』で決まりでしょ、ね!」と「記事のタイトル」まで指定してこられたので笑ってしまった。「お師匠さん『情熱は永遠に』とか言うてはりますよ」と門脇さんに伝えると「無理無理!もう情熱ないです!」と嫌な顔をされた。自転車競技の世界も多様化し、今ではマスターズの大会も大きく行われるようになり、世界選手権にまで発展している。「出たらってすすめてくれる人もいるけど、意欲は全然でないです」と門脇さんは言うが、城本さんは「そりゃ、いつか出るでしょ」と確信に満ちた顔で断言されていた。

私は、彼女のことを「二度引退を経験した人」だと思っていたが、実は大きな勘違いだった。トップアマとして一線から退いて就職した後も休みの日には練習を続けていた。だからこそ、突然の女子競輪復活に対応することができたのだ。これまで、完全に自転車をやめたことなどなかったのだ。

制度上の代謝によってガールズケイリンの選手としてはもう走れなくなったかもしれないが、門脇真由美はまだ走り続けている。彼女は一度も引退したことがない選手だったのだ。



師弟ツーショット

というわけで、競輪ファンの皆さん、引退して半年後の門脇真由美は何をしていたか。当たり前のように練習を続けていました。どこかのレースで雄姿を見られるのはまだまだ先かもしれないですが、関西サイクルスポーツセンターのバンクにいけば、月に何日かは必ず、疾走する彼女の姿を見ることができます。カドタン(門脇さんの愛称)ファンの皆さん、一度、足を運ばれてはいかがでしょうか。公共交通機関のアクセスは悪いですが、城本さんに連絡をとれば、きっと駅まで迎えに来てくれるでしょう。

門脇さんとわたしも記念写真

(終わり)

※「横空いてますか?」と間違ってメモしてましたが、こうでした。ご本人の指摘で修正しました。(^^;


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