今もひどいが若い時の自分はもっとひどかった。最後の審判か、閻魔様の前か、そういう時に、若い時の自分のしょうもない姿をそのまま動画で見せられたら、情けなさで憤死してしまうだろう。死んでる以上、もう死ねないんだから、それこそが地獄だ。

正月早々、大きな地震があって関連ニュースを見ていると、同じく1月だった阪神大震災の頃のことが思い浮かぶ。と言っても、この時も自分には何の被害もなかった。親しくしていた人を亡くしたということもなかった。大阪市内では最西の兵庫県との府県境の実家に住んでいたから揺れはすさまじかったが、皿が割れた程度の被害で済んだ。

思い出を書こうと思ったのではなかった。去年の夏に、友だちにスキャナーを借りたから手書きの日記やメモ帳を片っ端からスキャンした。碌に整理はしてないのだが、「何年日記」程度のタイトル付けはしてあるから、この頃、何やってたかと気になって、ちらっと見ることは簡単にできるようになった。前は、しまってある箱を開けて、取り出して、探し出して、の手間が必要だったが、クリッククリッククリックくらいで見られる。

見てみる。碌でもないバカが何か書いている。字は今と同じ。やっていることはちょっと若いし、内容に共感はできないが、それでもやっぱり他人ではない奴が書いたものなのは確かだ。こいつの気持ち悪さは、今の自分のそれでも当然ある。

94年の大晦日は、その頃夢中になっていた女性に会いに奈良に行っている。詳しくは書いていない。シーンは思い出せないが、何をどうしたか、事実は覚えている。向こうは自分など目に入っておらず、その後、この時にはもう、当時自分が仲良くしていた男と出来ていたのだ、ということを知った。というか、この時には、もう知っていた気もする。それでも、年越しなんて特別っぽい時間をその人と過ごせることが嬉しくてたまらず、たぶんずっとニヤニヤしていた、のだろうと思う。手のひらの上でコロコロ転がされて。バカな年越しだった。

年明けて、そういうことにもんもんとしているうちに1.17が来た。それなりになじみのある町の、すさまじい状況のニュース映像を見て、当然ショックを受けたが、頭の片隅にはその二人のことが常にあった。その頃は、気象関係の情報サービス会社で夜勤のバイトをしており、シフトに入っていた時に大きめの余震が来たりもしたのだった。何をしていても、今頃二人は下宿でいちゃいちゃしているのか、という嫉妬・妄想に頭を奪われていた自分は、大きな余震の時に、二人諸共死んでしまえ、と咄嗟に思ってしまい、すぐ後でゾッとした。大丈夫だった?なんて電話したりもしたはず。本当に最低だ。職場のテレビではずっとニュース映像が流れていて、死者数がどんどん増えて行っていた。

その女性も、今思うとあまりいい人ではなかった。しかし、自分が選ばれなかったのは当然だと改めて思う。軽薄なおしゃべり以外に何の魅力もない、頼りがいもない、小さい、卑怯な人間だった。

よくある若い時のあれなのだろうが、この頃から、自分の中でいろんなものが悪い方に転がり始めた気がする。もっと前からひどかったのだけど、こういうことがなければ、それに気づかず、もっと明るく暢気に普通に生きていけたかもしれない。今の苦境も、もっと違っていたかもしれない。

とにかく、もう少し、ましな人間になりたい。

ものすごく大変な目にあった人たちがたくさんいる中、こんな暢気な「思い出」を書いていることが申し訳ない。これまでにもブログか何かで書いたかもしれないが、今回また書きたくなったので書いた。

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