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最近思うこと#16 人の形

車の急ブレーキのように、ジェットコースターが終着点に急停止するように突然人は立ち止まる。

心も体も立ち止まると、踏ん張っていた体が溶け出すように床に崩れていく。必死にベルトコンベアを逆走していた自分の体が後ろへと流されていく感覚が分かる。これまで歩んできた道も、交わしてきた言葉も、重ねてきた時間もなんの意味も持たないほど遠くへと流されていく。ただ同時に安堵している自分もいたりする。もう走り続けなくていい、自分のために、自分のスピードで走ることもできる。

いつでも人に擬態して、人間の形を真似て生きている。自分は果たして何者なのだろう? 何を持って自分のことを「人間である」と証明することができるのだろう。人は僕の何を知っていて、何が見えていて評価するのだろう。時折不安になる。ちゃんと「人間」をできているだろうか。「善き人」を演じ切れているだろうか。

このままベルトコンベアに流され続けた果てはどこなのだろう。このままベルトコンベアに抗って走り続けた先はどこに着くのだろう。

「ありのまま」で生きることなんてできない。「ありのまま」生きられるのであったらきっと僕は殺戮マシーンになってしまう。人を恨んで、許せなくて、人を殺めてしまうだろう。だから今日も擬態して、人の真似事をして生きている。心が解放される瞬間だけを求めて生きていく。


写真を撮るのが好きだ。幼い頃、父のデジカメを借りて写真を撮ることを覚えてから写真を撮るのがずっと好きだった。撮った写真を家に帰って見せると両親は必ず褒めてくれた。それは今でも変わらない。それがきっかけでいつしか当たり前に写真を撮ることが好きになっていった。

写真を撮るのが好きと言っても、昔から1人で街に出ては気になったもの、気になった風景などをパシャパシャとシャッターを切っていくだけだ。だから人の写真を撮る機会がなく、どちらかといえば苦手で不得意だ。

そもそも普段から自分が撮られることが少ないので、どんな風な顔でどんな風な立ち姿で写ればいいのかが分からない。だから自分が撮影するとしても、どんな風な顔で写ってもらえばいいのかがアドバイスできない。こっちが緊張する。


撮影する側としてもどんな顔をして、どんな雰囲気で撮影したらいいのかが分からなくていつもワタワタしてしまう。「カメラを向ける」、「カメラを向けられる」という行為は当たり前になっているが、それなりの信頼関係がないとあまり嬉しくない行為な気がする。

だからちゃんとあなたが素敵だから、「素敵なあなたのことを撮りますよ」という雰囲気をしてしまうのだけど、それが余計なプレッシャーと圧をかけてしまう。そんな圧をかけたくないが故に緩い雰囲気で撮ろうとしてしまって結局のところ中途半端な写真になる。本末が転倒しまくっている。

そもそも「写真撮るよ〜」、「こっち向いて〜」などと声かけてから撮る集合写真とか記念写真は説明的すぎて、自分にとっては写真がただの"情報"になってしまうから昔から好きではなかった。自分が撮りたいのも撮って欲しいのも切り取られた"情報"じゃないのだ。自然と日々を生きている人たちの生活の営みを切り取り続けたいからシャッターを切っている。

カメラを意識した顔や表情は、結局のところ"いい顔"になってしまう。いい顔なんて見たくないのだよ。一番中途半端で、筋肉が緩んだ顔が見たいのだ。その顔を残したいのだ。ずっと愛おしいと思っていたいのだ。ササっとコソッといろんな瞬間に立ち会っていきたい。

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