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あの船旅があったから、今の私がある。

幾度も幾旅も、
毎日眺めた海と同じで
一度として同じではなくて

7つの海、5つの大陸、
その間に連なる無数の美しい島々と、
人々の笑顔の記憶は
今もくっきりと優しく、
私の人生を彩り

一緒に世界を見てきた
仲間との旅は
想い思いの夢のカタチへと
交差したり、広がったり、
また繋がったりしながら
果てしなく深く、強く、続いてく

大海原で作り上げた
奇跡のカーニバル、
満点の星や遠ざかる陸の夜景、
イルカやクジラが泳ぐ海、
朝焼けや夕日や満月、
オーロラを眺めながらヨガをして、
委ねて、繋がって、
一体になれた歓び

世界がこんなにカラフルで、
可能性に満ちているってことを、

私たちが味わったこの
地球を織りなす自然と
生き物の今や、
人々の想いや熱、
そのありのままの姿を丸ごと、

これからもたくさんの人に味わってほしい

2015年12月
私は7年勤めた
英国🇬🇧の法律事務所
クリフォードチャンス
を退職し

南回りで世界20寄港地
地球を一周する客船の

カルチャースクール
サンバ講師として

日本🇯🇵×ブラジル🇧🇷
友好120周年記念航海

に旅立った。

船上で10チーム
300人を先導する
洋上サンバカーニバルの
振り付け、ダンス指導を任されて。

ハイーニャダバテリア
カーニヴァルの楽器隊を率いる
女王を務めながらの
大海原でのカーニヴァルだ。

その足で
船がブラジルに上陸すると
乗客を率いて
世界的に有名な
本場リオデジャネイロの
カーニヴァルにも参加するっていう

私はこの航海の後
ヨガ講師として
再度2年後に
北回りの世界一周クルーズに
乗船

9年間在籍した
浅草の日本最大規模を誇る
老舗のサンバチーム
バルバロス
を卒業して、

ヨガ講師兼
プロのフリーサンバダンサー
をメインに
ライター、通訳、日本語講師など
をしながら

大好きなサンバとヨガを
生きる糧、仕事として
旅をしながら生きる

人生を
歩み始めました。

もともとnomadな旅人ダンサー
として世界を巡って
その国のリズムを知るために
踊りと今生まれているアート
に触れる旅を重ねていましたが、

その後は
会社に所属することなく

好きなことを仕事にして
好きな場所に
好きな時に行ける人生をと

あの時、会社を辞めて
社員という肩書きを捨て
旅立たなかったとしたら

今の自分はココにはいないでしょう

私はもともと
ディズニーリゾートに就職して
舞浜の青空の下
いずれは海外で働くことを
心密かに自分に誓い、
3年半という期限を定めて
1500倍の倍率を突破して
入った会社に
席を置いていました。

そこでも私は世界一幸せな船旅、
イッツアスモールワールド
で世界中の子供達が
各国の民族衣装で歌い踊る
アトラクションで
ボーダーシャツにハイソックス
パナマ棒姿の
ベネツィアの船乗り風の
コスチュームを着て
人事と施設を管理する
責任者をしてました。

新入社員がその部門で目指せる
最大の目標、中間管理職。

東証一部に上場したばかりの
社員思いのいい会社で
居心地良く、
さまざまな制度に守られて
快適でしたが、
目標を果たせたので
もう悔いはありません。

その後私のルーツを辿って
ハワイへの帰還を機に

東京ディズニーを辞めて
北フランスのホームステイを経て
同じフィロソフィーで英語版な、
フロリダディズニーワールドへ。

世界中の若者と
住んで、学んで、暮らして、
働き、旅をする

がワンセットの
カルチュラル
リプレゼンタティブ
プログラム。

国際交流大使として
着物着て
和太鼓叩いて
日本文化を紹介しながら 

エプコットセンターという
各国のパビリオンに
それぞれの国の若者が配属された

ユネスコ村みたいなパークで
2500人ほどの同期、
セイムアライバルズと働きました

そこから2週おきに
back to backで2週間分の
休みを繋げて4連休にし
(その分10日間連続働き)
毎月どこかの州を訪れながら
米国全土を巡る旅を
繰り返します。

こうして私は旅人人生への
最初の舵を切りました。

このフロリダにいる頃
ディズニークルーズラインが竣工し
マイアミや有数の港から
たくさんのクルーズ船が
カリビアンクルーズに
出航するのを目にしていました。

ディズニーでは
従業員のモチベーションや
意識を高める
様々な催しが用意されています

任期終了時にアメリカ式の卒業式🎓
もあれば
3ヶ月ごとに開催される
タキシードにカクテルドレスと
ドレスアップし、
閉園後の貸切パークで遊ぶ
サンクスキャストナイト
のパーティーなど

各部門のスーパーバイザーと呼ばれる
管理職の方々が、覆面でパークを巡り
ホスピタリティ溢れるキャストを見つけ、

キャストの鏡として
讃えるという

"ミラーオブキャスト"

もそのひとつ。

ある日

知能やカラダに
ハンディキャップのある
子どもたちのグループが
引率の先生たちに
連れられて、ランチ難民として
どこにいっても断られたと
ランチタイム終了間際の
日本パビリオンにやってきました。

私が着物を着て
おもてなしする
鉄板焼きダイニングは

熱くて大きな鉄板のついた
テーブルを囲み

目の前でシェフが
華麗な串と包丁さばきで
料理を振る舞う
エンターテイメントが
売りなため

鉄板の熱さをお手拭きの
ジューっとなる音や
ハンドサインで
子供達に伝えつつ、
安全に細心の注意をはらいながらも

私も日本ならではの折り紙を
その場で折ってプレゼントしたり

大人のゲストや
健常者と全く同じように

デザートまで、
一人ひとりに
ジェスチャーを交えて
注文を伺い、
言葉が喋れないお子さんとも
仕草とアイコンタクトで
欲しいアイスを
選んでもらい、
お互い想いが通じたときは
喜びあって笑いや歓声が沸きおこり

とっくに他のゲストが去った
後のダイニングでの
会食のひと時を

私自身も
言葉やハンデを超えて
意思の疎通のできることに
感動しながら
一緒に楽しむ感覚で
サーブをしていると

子供達が自ら
いつの間にやら
私の後について
ナプキンの片付けを
手伝おうとしてくれたり

別れり際は
何度も笑って
手を振ってくれ、

見送ったはずの
重度の障害を持つ
女の子が
ハグをしに戻ってきたのを

店をでて歩き出したグループの
後を追いかけて
あわてて手を繋いで
送り届けたとき

先生が最後に、
今日このパークの中で
子供達が一番笑顔になった場所は
あなたのテーブルだったのよと
言われた時には
思わず涙がでてしまいました。

その様子の一部始終を
同じ空間に居合わせて
見ていたという、
クルーズ担当の
私の知らない
上司の方から

ミラーオブキャスト
の称号が届き、

このご縁から
後に私の任期終了後、
船で働くための
面接にこないかという
誘いを受けました。

ただ、その時、私はまだ若く、
このプログラムで知り合った
総勢12カ国のルームメイトや
世界中にできた友達を巡る
世界旅行に出かけたくて

話を聞きにいったものの、
このオファーはあえて受けずに
自力の旅に出かけます。

この先の人生で
一生で一度は必ず
クルーズ船で働いてみたい
という想いが
なんとなく
心の片隅に生まれたのは
たぶんこの時のことが
きっかけだったと
想います。

そして歳月は流れ

再び私の元に
地球をぐるっと一周する船に乗り、
サンバを教える先生にならないか
という話が舞い込みます。

きっかけは
浅草にある
馴染みのブラシルレストラン

そこでは 
演奏に加わりたい人が
想い思いの
楽器を持ち寄り、

飲んで歌って輪になって
生音のサンバを奏でながら
ダンサーも自由に
音に合わせて踊り出す

パゴーヂというイベントが
定期的に開催されていました。

私はその頃フランスでの
ワーキングホリデーで出会った
ラテンのダンスに魅了され

浅草のサンバカーニバルにも毎年参加

本場ブラジルのリオデジャネイロに
通い詰め、本場のダンスを
肌で覚えつつ
チームの花形ダンサーの
一員として、休日ごとに
全国各地でショーやイベントに
出演するようになっていました。
チームの枠を超えて
ギャラの発生する
テレビやCMなどの収録にも
人づてにお声がかかるようになり

この店でも、たまに貸切の
結婚パーティーで踊ったり、
アーティストのPV撮影に参加したり
サンバ仲間の盛大な祝いの席や
カーニバルの2次会で
何度も足を運んでいたので
店長ともスタッフとも
すっかり顔馴染みになってました。

このパゴーヂの夜には
店員でもなんでもないのに
行くたび
自分ばかりが楽しんでも
つまらないからと

踊りながらテーブルを巡り
店じゅうのお客さんを
誘い出しては
総立ちで踊らせてしまう
陽気ななぞの踊り子として
夜な夜な出没していました。

その姿を
いつも面白がって
みていた店員の友人が

昔のサンバ仲間で
客船で通訳をしていて
当時タヒチに在住していた
スタッフから

本場のカーニヴァルに
ガチで参加できるのが
目玉の記念航海で

乗客にダンスを教えられる
サンバの先生を探しているんだけど
誰かいない?

と聞かれたとき

この人なら
サンバ知らないどんな
年代の人も
きっと踊らせられるはずwと
おもったと、

密かに
船のディレクターに紹介され

船旅の運営部から
直接声をかけられたのが
すべての始まりでした。

大好きなサンバは確かに
直感とパッション、瞬発力で
いかようにも踊れても、

人様に教えるとなると
話はべつ。

ヨガの先生になったときのように
何ヶ月に及ぶトレーニングで
教え方を学んだわけでもなく

3ヶ月半、海の上にいる間
1日2回100名から、多い時は
200名以上が参加する
レッスンを毎日こなすのは

ふつうに考えたら
ハードルが高い

でも世界を船で🌍一周し
大好きなサンバを知ってもらい

本場のcarnivalの感動を
たくさんの人と分かち合える

何度も足を運んだブラジル
リオのカーニバル
に船で海から参戦するって
面白すぎる。

日常の細々とした意思決定は
(今日の食事や着る服など)
ことごとく優柔不断な私でも

ここぞという
人生の大きな決断は
いつも迷いなく
すぐに飛びこむ私です。

その選択、
自分にとって
心地よいか、ここち悪いか?
が判断基準。

いつも心地良いほうへほうへと
舵を切り、
楽しい、嬉しい、幸せを
口癖に、

直感で
感覚的かつ
楽観的に歩んできた結果が

今ココです。

パンデミック前
地球3周目の
船旅が欠航し
ヨガもサンバも自粛され

私を取り巻く世界が
一変したのを機に

奄美大島へ移住しました。
テレビも見ず、
目の前に広がる海をみながら
ひたすら自然と向き合う日々

その後離島への旅へと誘われて
ふらっと船で沖縄に移り
世界に出かけずとも
世界があちらから飛び込んでくるよに
多様な人種が寄り集まった
島の居心地が気に入って
そのまま10ヶ月以上住みつき

島の海で、恋が芽生えて
翌年からはブラジル🇧🇷に
期間未定のプチ移住。

さらに今年は帰国して
東京には帰らず

新天地の三重にある
ブラジルタウンでの
新たなな暮らしが始まりました。

結局パンデミック中も
マスクとは無縁の
自然に囲まれた
暮らしを選んで

本当にその喧騒の波には
乗り遅れた浦島太郎のまま
私の旅は静かに
留まることを知らずに続き、

今に至ります。

すべてはあの時、最も
予想のつかない方を選んで
漕ぎ出したから。

チャンスの波が来たら
思い切って身を委ねて

流されるままに
まだ見ぬ世界へ
辿り着く

時にはそんな
えいやって
瞬間が
なんどとなくやってくるので、

私はいつでもまた
飛び乗れるように
目を凝らして
心を整えておこうと
思っています。

人生の旅はまだまだ続きます。

コレを読んでる皆さんも、
自分をまだ見ぬ世界に
いまだかつてない自分へと
運んでくれる波がきたなら

迷わず飛び乗りましょう

行き先を決めるのはあくまで
自分なので
途中で飛び降りてもいい

ただそうして流れ着く
新たな世界に帆を広げるみたいに
可能性に
両手を広げて
受けいれてみるだけでいい

後のことは
そこにたどり着いた人のみぞ知る
ですから
前もってあれこれ
考える必要はないでしょう

計画や
予定調和に縛られず

目が覚めたときには
思いもよらなかった
すべてが想定外の
未来に出会う

それもアリかもしれません

いつまでも
何処かへつづく
旅の途中で、私は在りたい。

#あの選択をしたから #マイナビ
#あの船旅があったから #旅するように生きる
#nomad #終わりのない旅 #永遠に旅の途中

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