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私は靴も履きたくない

私は遠い昔、ヒッピーだった。

イルカでもあったし、男尊女卑の酷い時代にインドで女性としてアーユルヴェーダの智慧を人々に役立てていた、魔女だった。

私のソウルには、遥か彼方の記憶が沢山残っているのだ。

それは、日常の些細な瞬間瞬間に散りばめられているし、何気なくチョイスするものによっても蘇ることがある。
どうしてだか、私のこれまで歩んできた道のりの途中途中に訪れる学びは、全てその事実を思い出していく作業に過ぎなかった様に感じるのだ。

それらの記憶は、魂の扉を早く開けて!とばかりに私の耳元でノックし続けてくる。

全く未知な新らしい知識や体験をインプットしているはずなのに、何処かいつも懐かしい感じがするのは、
ふと訪れたお寺で線香の香りを嗅いだとき、「おばあちゃんの匂いがする〜」みたいに、実はとても単純で辿りやすい記憶だったりするのかもしれない。

なので、もうそろそろ良い加減に扉を開いてこう答えたい。

「あなた方の存在を私は知っているし、そのスピリットを受け継いでいる」と…。


そう言えば、以前、目黒川沿いの新緑が美しい季節に、私は突然に靴を脱いで歩いた事がある。

その時履いていた靴は確かニューバランスのスニーカーで、友達の営むアートギャラリーに向かう途中だった。

ふと、徐ろに靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、裸足になった。
どうして私は靴を履いているのか不思議に思ったからだ。
思うがままに、靴を脱いでアスファルトを裸足で歩いてみると、とても清々しい気持ちになった。

その時も、
「あぁ、私は靴を履いていなかったんだなぁ」とこの肉体を超えた記憶を辿り、そう感じたのだった。こうして遥か遠い私の記憶はいつも突然に蘇る。

(こういった謎めいた個人の現象に共感して欲しいとは1ミリも思ってはいない。)

大分と偏りを垣間見せる私の前世の思い出話はさておき、
私の暮らす、この大都会東京で、靴を履かないという選択は私の感じている体感に反して、だいぶ違和感があった。
その違和感を裏付けるように、私が目黒川沿いを裸足で歩いている時、すれ違う人々からそれはもう不可思議な眼差しが向けられたのだ。

「あの子は、可笑しな人だ」
「変人だ」

どこからともなく聴こえてくる
そんな吹き矢は、私の足元に向かってヒュンヒュンと飛んできた。
まぁ、根っからのMy way mindにその吹き矢が刺さる事はないのだけれど。


あなたは、出かける際にいつも靴を履いている事に疑問を持ったことがあるだろうか?

この質問の "靴" の部分を、例えば違うワードに変えて、日常の中の当たり前と思っている事、モラルと化されていることや、常識というものの中に

疑問や嫌悪感、息苦しさを感じながら生きている人はきっと、沢山いるに違いない。
誰かに強制された訳では無いけれど、何故かデフォルトになっている事。

日常を振り返って見てほしい。

自分が感じている、通り越してしまった怒りのように、消えてはいないけど忘れてしまっているような胸の奥の嫌悪感。
世の中の大多数に、合わせていかなければ生きていけない!とどうしてだか、潜在的に刷り込まれてきている事。

私には数え切れないほどあった。

私たちの魂は、自分を生きる術を蘇らせてくれる為に、きっと息苦しさ(生き苦しさ)を感じられるのでは無いかと思う。

自分のままを生きて良い時代が、もう今目の前まで来ている気がしてならないのは私だけだろうか。
そう言った意味でコロナ渦は、私にとって"AWAKE"目覚めのサークルだと感じている。私たちは別れ道に立たされている。(のかもしれない。)


今目の前に叩きつけられている現象が、世の中や、世界という規模ではなく、先ずは自分自身に対して、どの様なメッセージをギフトしてくれたのか、私はいつもそんな風に考えてみたくなる。
自分へのメッセージをキャッチ出来て初めて、自分の身の周りが変化してゆく。


靴を履きたい時は履いて、履きたくない日は履かない。

これまでは、変人扱いされてきた
こんなナチュラルな選択を、息苦しさを微塵も感じる事なく出来る日が、訪れていると感じる。

やりたいようにやる!
一昔前までは、"わがまま"だという捉え方をされてきたような言葉達は、
現在、"ありのまま"だね!という捉え方に変化してきているように。

私たちそれぞれが、目の前の事象から何をどうキャッチするのか。それは私が大切にしている視点でもある。


今まで息苦しさを感じて生きてきた!と感じる皆さん。
学校に、社会に、ママ友コミュニティなど、自分の置かれた小さな枠の中に馴染めず、自分自身を否定して生きてきた!という皆さん。

そういう生き方は、もう終わり。
"完璧な自分を演じるために、どれだけの嘘をついてきただろう。"みたいな時代は、もう終わっているはずなのだ。

もう、靴を履かなくてもいいよ。
もう、服だって脱いでもいいんだよ。

例えば、100人中100人にそんな風に言われたとしたら、あなたは、どんな行動をとりますか?

あなたにとっての正解が、あなたらしい世界になる。

誰かに刷り込まれたような正しさを、また他の誰かに押し付けるのではなく、自分のままで居る事の出来る少しの勇気とそれを信じてあげられる愛をシェアしていきたい。

息苦しさを感じて生きてきた方々が、軽やかに
靴を脱ぎ捨てて、アスファルトを素肌で感じられた時、そこで感じる開放感や清々しさ、心地よさが、新しい、時代を創るのだと感じる。


「私、ついに脱いでみちゃったよ。」

っていうあなたのその一言が、まだ息苦しい世界に住んでいる住人達に、希望を与える事になるのかもしれないな。と私は強く想うのです。

前世の記憶だろうが、未来からの落とし物だろが、そんなのはなんでも良くて、

あなたが、感じるあなた。それが全てであってほしい。

#愛しか知らない

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