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無題

大切にしていたものを失くしてしまい、しまってあった箱を諦めきれずに何度もあけてみるけれど、やっぱりもうそこには何も入っていない。

京都アニメーションを襲った事件は、いつの時代、どの場所で起きても凄惨で痛ましい事件だ。
亡くなった方やその関係者、残された人々、当事者の苦痛と苦労を想像してみる。
そこには、わたしが言えるようなことは何もない。

書けるのは、いちファンとして抱くごく個人的な感情だけだ。
犯罪史上に残る大量殺人事件として、ニュースに触れた人それぞれが様々な感情を抱いていると思うが、わたしは加えて、好きな存在を喪失した悲しみに襲われている。
突然、敬意を抱いていた創作者が三十名以上いなくなり、彼らの築き上げた制作環境や作品の資料、アーカイブも失われたかもしれない。

事件の重要性と、個人の抱く感情は別物だ。
優秀なクリエイター集団に対して放火をしかけたから許されないのではなく、それは相手によらず許されないことであり、しかしそれとは独立して、自分の尊敬する人たちが殺されてしまったことに感情を揺さぶられるのは当然だ。

被害者の方の冥福を祈ることすら不謹慎ではないかと感じるほどに、そして、遠国の大量虐殺よりも、自分の思い入れのある人々の死のほうがずっと悲しいという、ごく私的で内面的な感情である。

ブッダならきっと、それも執着であり煩悩だと言うだろう。


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