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都会の喧騒から離れても、都会にいた

都会の喧騒から離れても都会にいるような日々。

人混み、不必要な人生に対する焦燥感、不必要な言葉、リアルという喧騒から逃れようとして辿り着いた世界もまた、自分にはおそらく必要のない言葉や写真、映像で溢れていた。

地元、故郷。

幸い、そう呼べる場所があるけれど、いつしか、本当の自分でいられる場所に帰ってきた安心感よりも、優越感に近い安心感を感じたい自分がいた。

「ここなら都会で目立てない自分でも目立てる」
「あぁ、相変わらずここにいる人たちは野心も承認欲求もない」

どこまで行けば都会の喧騒から離れられるのだろうか。

都会の空を見上げる僕らは、明日も都会の喧騒のピースを演じる。

大人になると、先延ばしにしておきたいことが増える。

あの頃やりたいと思っていてもやれなかったこと、あの頃は先延ばしにせざるを得なかったことのほとんどが、もれなく今先延ばしにしておきたいことリストに入っている。

「お金があったら」
「大人になったら」
「時間に余裕ができたら」

あの時と比べたら、ifはそれほどifでないはずなのに、新しく何か始めたり、何かを手に入れようとすることに対して、腰が重くなる。

毎日ハンカチを持ち歩くようになること、お酒を嗜めるようになることのいずれかが「大人になる」ということだと思っていたけれど、それは違ったのかもしれない。

やりたい衝動よりも、それをやる必要性や今やるべきかという思考が優先されるようになった時が、大人への仲間入りだ。

大人になんか、ならなければ良かった。

「色々考えすぎて、もうどうすればいいか分からない」

というのは、要するに「考えていない」ということなのかもしれない。

さすがに表現が強すぎただろうか、正しくは「考えるべきことを考えていない」というイメージ。

...と思ったけれど、色々考えすぎたのなら、おそらくもう十分考えていて、他に考えた方がいいことはきっとそれほどない。

案外そういう時は、「あとは決断するだけ」だったりする。

「決断」、文字通り、何かを決める一方で、何かを断つということだ。

何かを決められないなら、何かを断ってしまえばいいのかもしれないし、何かを断てないなら、何かを決めてしまえばいいのかもしれない。

刺激的な決断のエピソードに「退路を断つ」のが付きものであることに、妙に納得した。


夏の終わりか秋の始まりか、そのいずれでもないような束の間の季節がたまらなく好きだ。

夏の余韻と秋の予感が混ざり合った夜風だけが、唯一都会の喧騒から僕らを連れ出してくれる、そんな気がするから。

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