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年金事情、彼女の場合

2023年9月6日。
「63歳で仕事を辞めるわ」と友人のHは嬉しそうに話した。数年前のことである。

ドイツの年金支給開始年齢は2002年から毎年1カ月ずつ引き上げられており、今年は66歳0カ月となった。来年からは上昇のスピードが年2カ月に加速し、29年には目標の67歳0カ月に達する。構造改革により従来(01年まで)の65歳から2歳、引き上げられるのだ。1964年以降に生まれた人は67歳まで仕事をしないと、年金支給額が基本的にカットされる。

それにもかかわらずHが63歳で退職したのは、通称「63歳年金」という特例ルールが14年7月に導入されたためである。これは、公的年金の保険料納付期間が45年以上であれば、支給額の減額なしに年金を受給できる年齢を2年引き下げるというものだ(導入当時であれば65歳から63歳、現在は66歳から54歳)。

彼女はこの条件を満たした時点で退職した。その後は、すでに退職していた亭主とともに趣味のサイクリングとハイキングを人出の少ない平日に満喫するという年金生活者の「特権」を毎週のように行使している。

「63歳年金は誤った経済政策だと思うよ」と伝えると、「私は10代の後半からもう十分に働いてきた」と屈託のなく笑った。客観的に誤った政策でも主観的には正当なのである。

ドイツは大半の先進国の例にもれず少子高齢化が進展している。社会保障制度を維持するためには働ける人はできるだけ長く働く体制への移行が必要であり、63歳年金に対してはエコノミストや経済界が導入前から批判していた。案の定、この制度を利用して早期退職する人は多く、専門人材不足に拍車がかかっている。最近は同制度の廃止論が再び強まってきた。

そうしたなか、連邦雇用庁(BA)のアンドレア・ナーレス長官(社会民主党=SPD)の発言が注目を集めている。この制度を利用して若年層に比べて人件費の高い高齢労働者の削減を進める企業が増えていると批判したうえで、「まさにこれら経験のある専門的な人材を労働市場に可能な限り長くとどめる必要がある」と新聞インタビューで述べたのである。

ナーレス氏はSPDの長期人気低迷を打開するため、労相として63歳年金の導入を主導した人物である。人気取りのために自らが行った政策の負の側面の責任を企業に転嫁するというのは、ちょっとえげつないと思った。また、専門人材不足に頭を悩ます企業が多いことを踏まえると、高齢労働者を厄介払いする企業はそもそも多くないのではなかろうかという疑いが湧いてくる。首相になれず政治の第一線から退いた野心家の彼女はいったい何を狙っているのだろうか。

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