みんなにフィットするスピード感覚
【スピードに対する違和感について】
たとえばゴキブリがノロノロしていたら、あんなに多くの人に嫌われただろうか。
たとえばイモムシがきびきびしていたら、あんなに多くの人に嫌われただろうか。
人はみな動作に対して、心地のいいスピードがあるのではないかと考えています。
それぞれにとってのスピード
歯を磨くスピード、ご飯を食べるスピード、体を洗うスピード、歩くスピード、自転車をこぐスピード、スマホやPCタイピングのスピード、鞄からものを取り出すスピード、話すスピード。
日々の生活1つをとってみても、ひとりひとりがそれぞれの動作に対して速い/遅いがあると思います。そして時にそれは、競争という形で競われ、見せ物になったりもします。
ぼく自身は食事や歩くスピードは速いですが、ものを取り出す動作や話すのは遅い方だと思っています。
そういった自分の本能的な基準に照らし合わせて、速い人を見ればゾワッと、遅い人を見ればイラっと、ついつい反射的に思うことは多いのではないでしょうか。
「そんなに急がなくてもいいじゃん…。」
「なんでそんなにタラタラしてるの…。」
自分と異なるスピードで動く人を見ているのはあんがい、ストレスに感じるものだと実感しています。
みんなにとって心地よいスピードとは
では、だれのストレスにも違和感にもならないような、みんなが見てて心地よい「スピードの正解」はあるのでしょうか。
ぼくは、社会が作り上げたスピードの正解はたしかに存在すると思っており、自分のスピードを意識し、かぎりなく正解に近づけていける人のことをセンスが良いと考えています。
1対1の関係であれば相手によってスピードを合わせ、違和感なくすごしてもらえるようにできるのは、もうりっぱな1つの実力だと思うのです。
自分を社会にフィットさせる
なにかを”合わせる”ということは、ともすれば否定されがちな考え方でもあります。個性を持たず人によって自分を変化させることは、今の時代において特に良くないことされている風潮があります。
ぼくは、”合わせる”という言葉がいけないのだと思います。人や社会に”合わせる”のではなく”フィットさせる”。そう考えた方が、相手にとって心地いいことをできている気がして、うれしくなりませんか。
自分を社会にフィットさせる感覚をつかんだとき、また一歩大人になれたような気がします。
みんなにフィットするスピードを持った自分でいよう。という話でした。
山脇、毎日。