折り合いをつけないでいられること

年をとるにつれて、いろんなことに折り合いをつけるようになります。23歳のぼくですら、小さなころ疑問に抱いていたことについて「まぁ、そんなもんだよね。」と、だんだん考えないようになってきていると思います。

それは、生きるうえで自分の身の回り以外のことは”知らないふり”をしないとやっていけなかったり、漠然とした疑問は「大人ならもっと深く考えろ」というふうに、いろんな詰められたりするからでしょう。子どもが親にたずねるような、「なんで○○はいけないの?」レベルのことについては、どんどんどんどん考えないようになってきます。

だからぼくは、いつまでたっても「単純な疑問」を持ち続けられるような、大人の人に憧れます。しかもそれを人前で堂々と言えるような、見方を変えれば「恥ずかしい」と思うようなことでさえ、平気でできる人を素敵だと思ってしまいます。

そういった「折り合いをつけないでいられる人」が投げかける疑問は、みんなが生きてきた中で当たり前のように一度は考えたことであり、でも、答えが出ないので「そんなもんでしょう」で済ませてしまっていることが多いです。

答えがでない不条理な世の中について「なんでなんだろう」とずっと思い続けられることは、たとえそれが思い続ける”だけ”であっても、価値があるんじゃないかなぁと考えます。

抱いた疑問や問題について、それを解決するプレーヤーになれれば、立派であるのは間違いありません。でも、そこまでなれなくても、適切な方法で、人に疑問を投げかけ続けられる人も、ぼくは立派だと思います。それはとても苦しいことであり、社会と向き合い続けることなのですから。

ぼくもそんなふうにいつまでも、いい意味でずっとじたばたできる人になりたいなぁ。と感じたのでした。

山脇、毎日。