鎧の中はさわらないで

人は生きているあいだじゅう、ずっとなにかしらの「役目」を負っていると思います。会社員やアルバイトなど働くうえでの役目だったり、親や子など家族としての役目だったり。どんなシチュエーションでも果たす”べき”ことがある。というのがぼくの意見です。

ただし、この”べき”は必ずしも一つとは限りません。制度や規範意識など、一般的にみんながなんとなく同じの"べき"もあれば、人によってかなり考えが異なる"べき"もあるでしょう。都知事としての役目と親友の相談を受けている自分の役目とでは、考えられる”べき”の振れ幅に大きな差があるはずです。

役目を自分で考えず、「君はこうするべきなんだよ」と言ってもらえれば、ぼくたちはとても安心します。失敗しても役目を与えた人のせいにできますし、わかりやすい役目を全うするのはそう難しいことではないはずです。

役目を鎧と捉えれば、人は必ずなにかの鎧をまとっていると言えます。人から渡された鎧は自身に満ち溢れている分頑丈で、壊れても自分のせいだとは思わないでしょう。

逆に「自分はどうすべきなのか」を考えることは苦痛をともなう行為です。自分が不安がちに作った鎧はとてももろく不恰好で、うまくいかなかったという事実が簡単にその鎧を突き破り、生身の自分に触れようとしてきます。

生身の自分というのは、「他者との関わりがない自分」のことで、それ自身が代えがたい価値を持っています。それは存在するだけで無条件に尊く、誰にも侵害されるべきではありません。そして、生身の自分が鎧をまとわず、そのまま他者に触れることは絶対ありません。

ぼくは、鎧を突き破り生身に触れようとすることは、その人を大きく傷つけてしまうことだと思っています。頑丈な鎧でも、何度も攻撃されれば、壊れてしまうことはあります。鎧の使い方が悪かったり、保管に問題があった可能性もあります。

社会において、ときには鎧を傷つけてしまうのが仕方ない場合もあるでしょう。鎧をまとった人が凶暴化して暴れ出してしまったときには、みんなで止めないといけないかもしれません。

でも、もし誰かの鎧を壊してしまったなら、その先にある生身の人間には触れないでほしいのです。そっとしておいてほしいのです。それは誰にも否定されるべきでない、尊い価値を持つものなのですから。

山脇、毎日。