動機付けバランスのシーソーゲーム

毎日不安を抱えています。その不安は「これができなかったらどうしよう」といった類のものより、むしろ「これができなくなったらどうしよう」というもの。ある事の成否ではなく、ある状態の維持が心配なのです。そのような不安に包まれながら過ごしています。

ぼくがここでいう”状態の維持”とは、”行為”のことではなく、”精神”のことです。行為よりもう一歩踏み込んだ感じといえばいいでしょうか。うまく言葉にできませんが「doing」と「being」の違いと考えてください。つまり正確に言えば「こういられなくなったらどうしよう」ということです。

その「こう」とはいったいなんなのか、ずっと考えていました。わかったのは、「外的動機付けと内的動機付けのバランス」といった言葉に置き換えられるということ。もっと簡単にいえば「言われたからやることと言われなくてもやることのバランス」このバランスだけはなんとしても死守したいとぼくは思っているのです。

人にもよると思いますが、ぼくは「外的動機付けに対してできる限り内的動機付けが高いほうが望ましい」と考えています。もちろん「0対100」などはありえないと思っていますし、かえって不健全でしょう。でも、ぼく自身、できる限り内的動機付けの比重を高めようとしていますし、それを一番左右するのは「環境」だと思っています。

というのも今までの人生において「圧倒的に外的動機付けが高い」状態を何度か経験しています。「言われたからやることだけをやり続ける」のはほんとうに大変です。やめるという選択肢のハードルが高かった場合、それはもっと大変です。

結果的に、外的動機付けが高い状態でパフォーマンスを上げようとして失敗し、多くの方に迷惑をかけました。そのときのことを思い出すと今でも、関わったすべての方に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

いま自分は「限りなく内的動機付けが高い」状態にいます。1日にすることのほとんどが言われなくてもやることです。1番悪いときと比べればバランスは完全に逆で、今までを振り返るとシーソーのようにガッコンガッコン動いてきた気がしています。

今の状態はほんとうにありがたく貴重なんだと自覚しています。そして、この状態が失われたとき、自分がどうなってしまうかを身を持って体感しているからこそ、なんとしても維持したいと考えているのです。

繰り返しになりますが、このバランスを規定する一番の要因は、インセンティブの大きさでもモチベーション管理能力でもなく、環境だと考えています。

失う不安はいつもつきまといます。環境を変えるのは決して自分だけだとは限りません。家族や社会で関わる人などの動きによって自分の環境が変わる可能性は十分にあります。それをわかっているからこそ、いまの自分に感謝し、不安に打ち勝っていこうと思うのです。

山脇、毎日