もう二度と、”仕方ない”なんて言わない。

自分がやっていることの正しさは、どうやったら認められるのでしょうか。周りは誰も褒めてくれず、目標とする結果も出ていない、やっているだけでは生きていくこともできない。「正しい」と思っているのは自分だけで、ほんとうはまったく価値のないことなのかもしれない。

そんな状態で自分の意志を貫き通すのは、とても大変なことだと思います。正しさが認められるためには結果を出さないといけないのですが、やっていることの正しさに悩んでいるときは結果なんて出ていません。なので、けっきょくは正しさを外部に求めるのではなく、自分を信じることしかできないのだと思います。

このような悩みは、なにか自分の信念をもったことを始めようとしているみんなに当てはまるのではないでしょうか。ぼくも「自分が正しいことをしている」と認められた気はしていませんし、感情の大半は不安で埋め尽くされています。ぼくたちの取り組みを疑問視する声もいっぱい聞こえますし、いままでに失敗したと思ったこともたくさんあります。

ただ、その不安を超えて、ぼくはいまやりたいことをやろうと思えています。「いつ故障して落ちるかわからない」という理由で観覧車にも乗れないほど心配性のぼくが、なぜ自分のやりたいことをやっているかというと、やりたいことに対して圧倒的に環境が整っていると、心の底から信じているからです。

まずぼくがここまで生きてこられていることになによりも感謝しています。それはどう考えても自分の力ではなく、自分を取り巻く環境によるものでしょう。どこに生まれ、どこでだれの元で育ち、どのような人と関わりながら生きてきたのか。自分ではどうすることもできない部分においてぼくが無事でいられたという事実は、それだけでありがたいものだと実感しています。

そして周りの環境に支えられながらいまこうしてここにいられると思うからこそ、自分を大切にしたい。と思うようになりました。不安にかられて動けなくなることだけはほんとうにやめようと。なによりもつねに、自分のやりたいと思うことを大切にしようと。やり抜くのも撤退するのもそれが「自分の決めたこと」なら尊重しようと、思いました。

ぼくは、自分に言い訳をするのがいちばんいけないことだと思っています。どんなことでも最後に決断するのは絶対自分です。誤解するかもしれませんが、これは「周りのせいにするな」と言っているわけではありません。

人のせいや環境のせいにすること自体は、ぼくはわるくないと思います。ただ、周りのせいにしてとった決断はけっして「周りが決めたこと」ではありません。かならず「自分が決めたこと」です。「周りが悪いから、自分の意思ではないけど仕方なく…」ではなく、「周りが悪いから、自分を大切にするために積極的に」決断したと思うべきです。

とくに自分に自信がなかったり、不安に満ちあふれているときは、そのように考えるのは困難でしょう。さきの「仕方なく」という思考回路は、意思の放棄の表れだと思います。その先になにがあるでしょうか。

自分のすることの正しさに不安になったとき、まずすべきは「自分に自信をもたせるよう努めること」だと思います。それは、周りの人からの助言や声援がきっかけになるかもしれないし、行動の積み重ねの結果で得られるかもしれません。

ただ一つ言えることは、自分の意思を尊重できず、「仕方ない」とばかり言っていれば、不安は絶対に解消できないということです。

いつもいつも不安で仕方がないぼく自身や、不安なあなたにエールを込めて。

山脇、毎日。