押し出せるような好き

10月に入り、秋学期、大学生活最後の学期が始まりました。久しぶりに訪れたキャンパスに見知った顔は少なくて、誰かに「もう、来なくていいよ」と言われているような、そんな寂しさを抱えながら構内を歩いています。

「そこに居ていい場所」「そこに居るべき場所」というのは、一人で決めるんじゃなくて、自分の所属や友達や、周りの環境と一緒に決めていくんだということを、今更ながらに感じました。

いまのぼくには、友達やコミュニティが提案してくるような、「ここに居た方がいいよ」という温かい場所はありません。ただ学生証というプラスチックのカードで、居られる場所とそうでない場所を、自分が区別するだけです。

思えば小さい頃から「寄せてもらう」のが苦手でした。自発的に考えた遊びでみんなを巻き込むのは好きだったけれど、すでになにか色がついた、できあがった輪の中に自分が入ることは、場の空気を壊さないか。変な雰囲気にならないか。

ネガティブなことばっかりを考えて、一歩を踏み出せない子ども時代だったと思います。自分の好きは伝えるけれど、他人の好きには触れられない。そんな感じだったのでしょうか。

しかし、ここ最近、ぼくは多くの人の「好き」に触れました。どの人も自分の本当に好きなことについて、それが楽しく伝わるように、めいっぱいやっている人ばかりでした。

何かを選びとるということは、何かを選ばないということです。厳密には言えませんが、何かを好きだということは、何かを嫌いだということでもあります。

でも好き好きパワー全快の人たちからは、他の選択肢なんて最初からなかったかのような、とてつもない力を感じました。いわば”一択感”。何かを否定した上に成り立っているものでは全くありませんでした。

そんな人を見て、「ああ、この人はこれが本当に好きなんだなあ」と思える感情が、どれだけ楽しいのかということを、初めてわかったような気がします。人が好きなことを発信している姿は、キレイでカッコよくて尊いと。いまなら自信を持って言えます。

そしてぼくは、デニムやものづくりについて、発信する側に回っています。でも、多分いままでは、こういった人たちに触れるまでは、ぼくの好きは引き出されるようにできていたと思います。

引き出す側がいてこそ見られる好き。「好き?」と聞かれて「うん」と答えるような、そんな控えめな好きではなくて、引き出すんじゃなくて押し出せるような、そんな自分の大好きを、これから伝えていければ嬉しいです。

山脇、毎日。