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山梨はFacebookと化している

575。というわけではなくて。

山梨に限らず、地方全体に言えることだと思うんだけど、地方に移住すると「圧倒的他者」に出会う機会が極端に少ない。
圧倒的他者というのは、この人一生接点がないだろうなという縁もゆかりもない人のこと。

東京に住んでいた頃は、圧倒的他者の出会いに満ちていた。
表参道や原宿を歩けば下着姿に全身タトゥーを施したゲイの人なんかが普通にキティランドで買い物をしたりしていたし、朝6時の通勤電車の中から向かい側のホームで彼女をぶん殴っているクズな彼氏を目撃したり、ゴミ出しに行けば荒川に住んでいるホームレスのおじいちゃんが空き缶ごみを漁ったりしていた。
団地を通りかかれば「私の子に電磁波を浴びせないでください!」という張り紙を壁一面に何百枚も貼っている家があったし、出張があって朝5時くらいの山手線に乗るようなことがあればシート全体を占拠して寝っ転がっている酔っ払いが始発からいたりした。

そういう目撃が山梨にいるとまったくない。
いや、そういう出会いを求めているわけではないのだけど、「どうしてこの人はこんな人生を歩むことになってしまったのだろう」という目撃が、知見と思索を深めていたんだなということが、失って改めて分かる。

要するに「対立と横断」がないのだ。毎日同じ仲間内で人生が完結してしまう。
例えば私はセラピーとヨガにほんのりと接触している生活柄、周囲にはいわゆる「反ワク派」、コロナワクチン反対派が多いが(私自身もコロナワクチンは一度も打っていない)、その周囲に聞くとそもそもコロナワクチン推進派に“出会ったことがない”という。
そんなことあるんだろうかと思うが、実際あるんだろうと、山梨にいると実感として理解できる。

閉じられていて、平和だ。仲間内の「いいね」と同意しかない。
そういう意味では、地方は総じて「Facebook化」しているのだと思う。もっと言葉に棘のある人なら「宗教化」とも言うかもしれない。

平和なら何よりじゃないか。それはそうだが、安全と安心に包まれたドームの外側では、今も平日のガラガラ状態にあるモールのフードコートで母親が子供を殴って引きずって行ったり、御徒町の高速道路のガード下に段ボールハウスが並んでいたり、毎週日曜日には右翼団体の街宣車が拡声器で軍歌を流す横でどこかの外国人の声でキリストの復活を訴える車が並んでいたり、今にも朽ちて落ちそうな廃屋の入り口に「猫を120匹飼っています。欲しい人差し上げます」と書いてあったり、そういうことが日常的に起きているんだろうなと思うと、今の状況に甘んじていていいんだろうかということも少し考える。

という記事を読んだ。今回の投稿はこの記事を読んだことが大きく影響している。

不安定な時代だからこそ、人は意見の一致を求めてしまうのかもしれない。
同意してばかりの人生は満たされないということだった。そうやって生きるためには、たくさんの妥協と自分への裏切りを必要とする。
ぼくたちは意見の相違があるほうが、ないよりも良い結果をもたらすように、意見を異にしなければならない。


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