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巡り歌 還り歌 送り歌

某PIx**で「さなコン2」というコンテストに応募するつもりで、間に合わなかった作品です。


 私はまだ土に歌をうたってやったことがない。
お前は頑固だね、とアボ。それが最後の一言だった。アボを土に埋めた時も私は泣かなかった。土はアボが生涯働き続けて手に入れたものだ。若い頃は農場で働き、子どもを持ってからは乳母や子守りとして働き、子どもが独り立ちするとわずかな土地を借り、そこで暮らした。
 独り立ちした子どもはまた子どもを産み、アボのところへ戻ってきた。だから私はアボに育てられたようなものだ。母のトグルは街に働きに行き、日銭を稼いだ。帰り道に居酒屋で銀竜酒の模造版を一杯やって帰ることが、トグルの楽しみだった。仕事は辛かったし、模造酒は内臓を痛めつけた。トグルは疲れて寝てしまうことが多かった。だから、私は歌というものをトグルからではなく、アボから教わった。普通は母から教わるものなのに。
 アボは土で命を育てた。それは巡りの技だった。なぜならアボは土も育てたからだ。皮でも根っこでもおよそ私たちは何でも食べたけれど、それでも食えない部分は土になった。私たちの身体からひねり出されたものも、いくつかの作業を経てしまいには土になった。アボの歌は、死んだものを土に還す技だった。
 誰でも歌を持っているが、歌の技はそれぞれ違う。私はアボに聞いたことがある。どうしてそんなことができるの。生まれつき決まっているのさ、とアボは言った。
ただ、それを知るには……。アボは遠い目をした。大きくならなくちゃね、そして……一人で森に入って過ごすのさ。そうすれば歌がお前を見つけるよ。お前だけの歌がね。
 トグルの歌がなんだったのかはわからない。歌を持っていたのかどうかも。トグルは私に一度も歌を聞かせることなく、消えてしまった。そう、文字通り。
街でみぁうむぃな病が流行っている、とトグルが口にした。
「みぁうむぃ」ってなあに? 
 聞きたかったけど聞けなかった。トグルは珍しく素面だった。聞きたいことはたくさんあったけれど、三人で食卓を囲むのが久しぶりすぎて、私はさりげなく過ぎていく時間を貪り食べた。
 翌朝、トグルは仕事に行き、そのまま戻らなかった。いつもの、アボと二人の夕餉が終わり、寝床に入った。トグルの鼻歌が聞こえるのではないかと耳を澄ませた。アボの小屋は森のはずれにあった。風が木々を揺らす夜だった。くぐり戸はキィと鳴ったけれど、よろめく足音は聞こえず、起きていようとした私を眠りが引き込んだ。明け方、薄いスープを温めながら、アボは首を振った。私は大急ぎでアボの手伝いを済ますと、街まで駆けていった。母が何処かに落ちていないかと思って。
模造酒を飲みすぎて潰れているか、もしかしたらそのまま……。
 悪いことを考えないように、あそこにキュッと力を入れた。それもアボが教えてくれたことだ。路上にも、息を切らせてたどり着いた居酒屋にも、トグルは見当たらなかった。老婆が店の前でシラカバの箒を動かしていた。右に左に、左に右に。私はトグルの姿形を告げ、見かけなかったかと聞いた。老婆は答えず、ただ首を振った。知らないのか、聞こえないのか。私はしばらく街をさまよい、足を引きずりながら家に帰った。夕暮れが私を迎えた。夕暮れとアボが。アボは土に向かい歌を歌っていた。死んだものを土に還す歌を。
やめてぇ、と私は叫んだ。アボはやめなかった。私はアボの背中に飛びかかった。アボの歌を止めたかった。やってはいけないことだと知っていた。
歌を途中で止めちゃいけないよ、とアボに何度も言われた。歌が淀むと、よくないものを連れてくる。流れ出したものを止めちゃあいけない。
 アボのたくましい腰にむしゃぶりついた。汗と土の匂いがした。そのまま、わっと泣き出した。もう止まらなかった。アボは最後まで歌い終えると、初めて私に向き直り、肩を抱いてくれた。
バカな子だね、とアボはただ背中をさすった。いつもの歌だよ。私たちには土が必要なんだ。食べていくために、そしてやすらかに眠るために。

 風が歌を連れてくる。雨が歌を連れてくる。薄い日差しが森に染み込む頃、アボは私を森にやることに決めた。トグルが消えてからいくつの季節が巡ったことだろう。私は「つきのもの」を迎え、アボは静かに年を取った。「みぁうむぃ」の病と言われていたものが、徐々に街を犯していく年月だった。
 トグルが教えてくれた言葉が「無意味の病」であることは、今や皆の知るところとなった。この病にはほとんど症状がない。私はトグルと食べた最後の夕餉を思い出す。酔っていないトグルは静かで、病気にかかっているようには見えなかった。街の人のうわさ話では、生きる意味を失った人から徐々に消えてしまうらしい。もともとアボと私しか住んでいない森のはずれに、塩やスパイスと共にうわさ話を届けてくれる配達婦のミロが姿を見せなくなった。
街へ行ってみようか、と私はアボに切り出した。アボは静かに首を振った。そして私に森へ行くための準備を始めるように、と告げた。私は反抗してもよかった。振り切って街に行ってもよかった。歩いて、走って、真実を探しに行ってもよかった。そうしなかったのは、アボを愛しているからだけじゃない。私は歌に焦がれていた。アボの語る、歌をめぐる私たち一族の物語に。
うわさ話は人の話、とアボはある日ミロの姿が遠くに消えてしまってから言った。激しい口調ではなかったが、鉈で薪を割るみたいにきっぱりとしていた。
人の話に呑まれちゃあダメだよ。自分の歌が歌えなくなる。
 アボは物語を話してくれた。一族の歌にまつわる物語を。私がとりわけ好きだったのは、歌が人を見つける時の話。
歌はいつもあるのさ。そして世界を巡っている。
風のように? と私は聞いた。
風のように、雨のように、光のように、匂いのように。気づいたかい、とアボ。
何を? と私。
ルリビタキ、雨が来るって言っている。
 私はかむりを振った。アボが片目をつむった。それは、世界の秘密を打ち明ける時のアボのクセで、私はこの仕草が好きだった。アボの皺の寄った肌や、柔らかくカールする色の抜けた長い髪、そしてかまどの灰よりも灰らしいアボの瞳が。
聞こえないものは存在しないんじゃない。お前の耳が開かれていないだけ。大切なのは自分を開くことさ、とアボは言った。
なぜ森に行かなければいけないの、と私はささやかに抵抗した。うわさ話と言われてもトグルはあれから戻ってこない。ミロが来ないと、そのうち塩の蓄えも尽きる。スパイスがないのは仕方がないとしても、塩なしでどうやって生きていける? 小麦は間も無く収穫の時分だけど、粉にするには人の手を借りなければ。街に人はどれくらい残っているの? 
 それに私はアボも心配だった。記憶はしっかりしているし、畑仕事もこなすけれど、私のいない間にもしアボに何かあったら? この上、アボまで失ってしまったら?
 アボは答えず、私の目をじっと覗き込んだ。灰色の目の中に答えがあった。
 私は遅かれ早かれ、アボを失うのだ。アボは私に歌を教えたがっていた。死んだものを土に還す自分の歌を。けれどまだ歌に見つけてもらっていない女に、他人の歌を歌えるわけがない。歌を歌わなくても土は仕事をするけれど、それははるかに遅く、おそらく私は命を回すことができなくなる。それに、とアボは言った。
お前に歌ってもらわなかったら、一体誰に歌ってもらうというんだね。
 その言葉に込められた意味に気づきたくはない。なかった。
 
 森が鳴っている。いや、あれはアカゲラ、それともコゲラ? 葉ずれの音に混じる規則正しい音に私は耳をそばだて、三年前に蜂蜜と交換で手に入れた貴重な毛織物をきつく身体に巻きつける。歌を見つけに森に出かけてから二晩が虚しくすぎた。
そういえば蜂たちはどこへ行ってしまったのだろう。アボの蜂たちは良い仕事をした。他の人が羨ましがるくらい蜜蝋も蜂蜜も取れた。アボはその秘密を請われても明かさなかったけれど、私にはこっそり教えてくれた。片目をちょっとつむった後で。知り合いの知り合いのまた知り合いに「蜂の歌うたい」がいたという話。すらりとした金の髪の女だった。蜂のように震える金色の声を持っていた。彼女は自分の歌を誰にも教えなかったけれど、ある日、恋に落ちた。黒い目の野生の足を持つ女と。彼女は風を吹かせる歌を知っていた。二人は歌を教えあい、その後幸せに暮らした。
 話を聞いたときに思った。一体この世界にはどれだけの歌があるのだろう。そして、どれだけの歌がもう二度と歌われることがないのだろう。歌の交換は、愛によってのみでなく、利によっても行われる。けれど、たくさん歌を覚えることは必ずしも良いこととはされなかった。
歌が薄まってしまうのさ、とアボは言った。それに、なんでも一人でできたとして、どうするつもり? ずーっと一人で暮らしていくのかい?
 私がまだ幼かった頃、ただ歌に憧れていた頃、歌うたいはまだたくさんいて、女たちは色々な技を歌で行なった。雨を乞う女、水脈に語りかける女、動物を寄せる女、植物の育ちに働きかける女。
 そしてどの女も母親から教わる歌がある。それは「孕みの歌」。女が充分に成熟し、自分の娘を持ちたいと願った時、母親か代母が女に「孕みの歌」を教える。女は満月の晩に人気のないところに行き、月に向かってその歌を歌う。月は見えている方が良いとされた。首尾よく行けば、女は自分の娘を腹のなかに授かる。そして十月十日かけて育て、生み出す。相方はいてもいなくてもよかった。トグルのようにアボの助けを借りるのもごくありふれていた。女たちは技を交換し合い、助け合って小さな集落を作り、森の端で暮らした。この星に人類マンカインドが現れるまで。
 
人類がどこから現れたのか、女たちウーマンカインドは知らない。確かなことは人類が歌を歌うことができない種族だということだ。響き合うこともできず、流れ合うこともできない。ただ、手の技には長けていた。水脈に呼びかけることはできなくても、機械で大地を切り刻んだ。獣を呼び寄せることができなくても、遠くから射止めた。死んだものを土に返すことができなくても、薬をまいた。はじめ人類が住み始めた場所は森から遠く、女たちは人類の所業を好奇の目で見るばかりだった。だが次第に人類は増え、大地を崩し、灰色の泥で固め、呼吸を止め始めた。撒き散らされた薬は、命の根を犯しはじめた。森が枯れ、獣が減り、その影響は女たちの共同体にも及びはじめた。先住民である女たちは、二種族の間に境界となる街を築くことを提案し、そこでは女たちと人類は交わって暮らした。「お金」というもの、大地には直接属さないもの、歌の力の及ばないものも、そこでは使うことができた。歌えない女が生きていくには良い環境だった。トグルのように。
 
 吊った毛織布にもぐりこんで、降り始めた雨を凌いだ。歌を見つける旅に火種は持っていけない。火は歌がお前を見つけるのを妨げるのさ、とアボは言った。昼を過ぎたばかりだが、雨が闇を呼んでいる。私は焼きしめたパンをかじり、口の中で干したベリーが唾液を甘くするたびにすすった。
もしダメだったら……もし歌が私を見つけてくれなかったら……。トグルは一度も歌わなかった。
 母さんのように「歌えない女」になりたくなかった。アボの歌を教えてもらい、アボを土に還したかった。アボが望んでいるように。身体を丸めできるだけ地面との接触を少なくした。それでも体温は徐々に奪われる。眠気が忍び寄ってくる。このままなら、もし歌が私を見つけてくれなかったら、もう帰らず森に命を還そう。そうしたら、アボが私を見つけて土に還してくれる。
―では、アボのことは! 誰がアボを土に還すの!!!
 厳しい声が私を貫いた。死のまどろみを吹き飛ばすほど、激しい忿怒に縁取られたトグルの声だった。トグルは生きていた時には決して見せなかった険しい顔で私を見ていた。
「歌えない女」の何がわかる! 私は歌いたかった。でも私は自分で歌を封じた。自分の歌を歌うことができない時、女はくびれて死ぬ。街にはそういう女がたくさんいた。死ななくても人類と暮らすことで徐々に死んでいく。「みぁうむぃ」の病に罹り、消えてしまうくらいなら私は私の歌を歌えばよかった。アボがお前に知らせなかったことが一つある。
 トグルの口が耳まで裂けた。口から炎の言葉が出てきて私を焼いた。
お前は「孕みの歌」で生まれたんじゃない。人類が無理やり私に種をつけた。お前は半分人類でできている。だから私は私の歌を歌うのをやめた。
 かすかな意識が、これが「音ずれ、訪れ」だと告げた。歌は私に追いついた。だが、なんというやり方で! 私は泣くことも、喚くこともできず、ただビジョンが身体を貫くのに任せた。トグルの怒りが、悲しみが流れ込んできた。ビジョンの中でトグルは歌っていた。それは「殺戮の歌」、人類を皆殺しにする歌だった。私はおののいた。この歌が私の歌なら、私もまた一生歌うことはないだろう。それとも、ある日丘の上に立ち……。
 冷たいものが顔に触れた。私はいつの間にか吊り毛布から走り出て雨の中に立っていた。
歌いたかった、とトグルは言った。どんな残酷な歌でも。それが私の歌だから。お前には違う歌をあげよう。ずっと、歌ってやりたかった歌を。
 トグルの声に違うものが混じった。酔っ払った時、夜中に帰ってくる時、トグルの口から漏れる鼻歌にはっきりした旋律がついた。それは思いもかけない優しさで私を包んだ。もしかしたら聞いたことがあるかもしれない懐かしい旋律が。
 
 私が小屋に戻った時、アボはまだ息があった。
歌がお前を見つけたんだね、と囁くようにアボは言った。アボは途方もない時間をかけて、寝床から起き上がると私の肩を抱いた。
私の歌をお取り。アボが歌い始めた。旋律を身体に入れるだけでよかった。私はもう私の歌を持っていたから。
わたしゃなんどもあの子に言った。
皆殺しにしてもいいんだよ。私たちは人類なしでずっとやってきたんだからと。お前の歌はそのために授かったんだって。あとは、私がすべて土に還すから。何もなかったことにしてあげるから。
 アボの言葉は私への言葉でもあった。なぜなら、今までにこんなことがあったのかなかったのか、私は歌われなかった母の歌も、同時に受け取ってしまったから。
 私はトグルに代わって首を振った。アボの目にもう私は見えていなかった。アボは最後の息で私に言った。あるいは愛しい娘に、だったのかもしれない。
……お前は頑固だね。
 それがアボの最後の言葉だった。
 
 アボの目を閉じてから、土に穴を掘った。アボは思ったよりずっと重く、そして軽かった。新しい盛り土に枝を刺し、その前に額ずいた。
待っていてね、と私はアボに言った。その前にやることがあるから。
 私は街を見下ろす丘まで行き、風の巡りを確かめた。間もなく夕暮れ、風は森から街に向かって吹く。私は私の歌を歌おう。人類を殺してしまう歌の代わりに、永遠に眠らせる歌を。トグルが私に歌ってくれた歌を。それから初めて私は土に歌を歌おう。
 
 夕陽が丘を真っ赤に燃やした。私は声が枯れるまで私の歌を歌った。人類の居住地に届くように。街は静かになり、静けさはやがて星の半分に広がった。そうして人類は永遠の眠りについた。
 
〈了〉

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