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震えて善をなせ

たくりくたる たくりくたる たくりくたる
 ペダルを踏む足は永遠のリズムを刻む。橋が見えてくる。軽い登り坂。いつものコース。
 湘南の海はいつも風が強い。橋を吹き抜ける風はさらなり。正直1/3を渡るまで予測がつかない。風除けのフェンスはそこで途切れ、よろめくほどの突風に吹き殴られることもある。路上の電子サインは気温を告げてはくれるけれど、風の強さまでは教えてくれない。上空のトンビとカラスの飛び方を見る。カラスが風に逆らって飛ぶ。一羽のトンビを二羽のカラスが追う。一羽のカラスが吹き戻される。
 ということだ。
 あらかじめ身体に言い聞かせておく。するとうまくいくのだ、たいていの場合。それでもキツイ時は、海からの風に逆らうように微かに頭を海側に傾げる。風と頭の重さが拮抗する。スカスカのヘルメットを通し、風が髪を逆立てる。地肌に叩きつけられる砂つぶ。なるほど本日は強風なり。
 橋の中央に海側に突き出した窪みが作ってある。立ち止まって大島や伊豆半島を眺めている老人や、モーターボートの飛沫に魅入っているカップルがいたりする。そこに一台の自転車が止まっている。カゴつきのママチャリ、乗り手はいない。無造作に押し込まれた買い物袋に詰め込まれたアレコレ。通り過ぎる。路上にタマゴのかけらのような。進路に差し障りはない。通り過ぎる。
 大船駅付近のアパートから西に向かって走るのが好きだ。三浦半島でもいいけれど、休日は鎌倉付近が混む。目的地は決めてない。大磯まで行くこともあれば、平塚でアジのたたきを食べて帰ることもある。今日は平塚漁港でぼんやりしてからシラスを買って折り返した。こう風が強くては快適とはいえない。訓練と割り切り、帰ってシャワーを浴びたらシラスをつまみにビールを空けよう。
 ロードバイクで走り始めたのは小学生高学年からだ。親父と走ってどこまでも出かけた。箱根も超えた。一人暮らしを始め勤めに出るようになって平日は乗らなくなった。身体が鈍らないように休みの日は最低20キロは走るようにしている。
 帰りも同じ道を通った。橋を越えようとした時、まだママチャリが停まっていることに気づく。今度は女がいる。スポーツウェアで近所に買い物に出たのか、そっけなくまとめた髪が風にあおられている。化粧っ気のないしかめツラは車がひっきりなしに通る134号線を見つめている。何か飛ばされたのか、知ったことじゃない。保冷剤入れてもらったけど、シラスの鮮度が落ちるんだよ。と思う間に停まっていた。
どうしました。という声は誰の声だ。人助けなど嫌いだ。下手に声をかけて迷惑そうな顔をされたら、傷つくだろう。パンクだったら、近くの自転車屋まで押していけばいい。チェーンが絡んでるんだったら、外すくらいはしてやろうかなど凡百の声入り乱れて、何やってんだオレ。
マフラーが…という声は予想に反して乾いていた。見るとオレンジ色の長いやつが中央分離帯の茂みに絡んでいる。あれ取るのかよ、無茶だろこの交通量で。マフラーなんか諦めろよ。
今は無理ですね夜にでも、というオレの提案は女の声でさえぎられた。
諦めろってことですね。
えっ、オレそうは言ってねえけど。
プレゼントだったんです。

えっ、何その過去形。
女はたとえようのない顔で苦笑いを返した。


 
 

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