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テュス



 どの湖にも片隅に老いた手を持った若い女が棲んでいる。
 ―「狼と駆ける女たち」より


お婆ちゃんのよう。何度呟いたことだろう。しわだらけの手を冷たい水に浸す。チョウが羽ばたくほどので疼痛は消え、嘘のように湖と同化する。そのたびにしわは増す。悔やんだことはない。この手でなければ、ガラスの鳩を触ることはできない。岸辺に並ぶ幾羽もの鳩を一羽ずつだきあげ唇を寄せる。唇はいつも凍っている。

テュス!

 吹き込んだ命が炎となって鳩の中で燃える。青い炎。次の鳩を取り上げ、また唇を寄せる。娘は疑ったことはない。自分の命を吹き込んでいるのではないか、このまま続ければいつか死んでしまうのではないか、と。青い炎はゆらめく、記憶のごとく、夢のごとく、空の向こうのごとく。並んだ鳩のすべてに命の火が灯ると、胸元から鍵を取り出す。頭にうずまき模様のついた小さな鍵。

 鳩の心臓に鍵を差しこんでぜんまいを巻く。キュッキュッと音を立てて巻きしめる。巻き終えて掌の上に乗せる。吐息のように指を開くと鳩は飛んでいく。もう幾千、幾万の鳩を見送ったことだろう。鳩がどこにいくのか娘は知らない。次の鳩にまた差し込む。薄い鋼の音が愛おしい。巻き終わりの感触はあの人の鼓動に似ている。知らないはずなのに知っている。

 湖の向こうに山がそびええている。山頂に雪冠をいただく荒涼たる山だ。そこを超えて大きな鳥が飛んでくる。ガラスの鳥だ。娘は鳥の名を知らない。両腕を広げたよりも大きな翼とクエスチョンマークのようにしなる首。胸の中では白い炎が燃えている。炎が鼓動を伝える。娘の鳩よりもひとつひとつのリズムはかすかに長く、娘の鼓動と二重奏を刻む。どのような手があの鳥を飛ばしているのだろう。思うたびに炎は揺れる。

 陽が暮れると大きな鳥たちは湖に浮かぶ点となる。波に乗りかすかに揺れ、浮かぶ鳥の中で白い炎が瞬く。長い首はどこに消えたのかと娘はいぶかしむ。大きな鳥は、山の向こうにいるたれかの存在を思わせる。記憶にある限り幼い頃から、娘は鳩にテュスを吹き込み、ぜんまいを巻いてきた。鳩たちは飛んでいく。湖の向こうへ。湖をとり巻く丘陵の向こうへ消えた鳩もいた。けれどあの山は越せるだろうか、と娘はもの思う。私があなたを知っているように、あなたにも私を知ってほしい。それ以来、娘の胸に宿る鼓動に雪のひとひらほどの変化が加わった。吹き込む炎はわずかに赤みを帯び、青紫に翳った。ぜんまいを巻き込む手にもいっそうの熱がこもる。遠くへ、もっと遠くへ、あの山を越えて。

 陽が沈む時、山肌は赤く染まる。娘はあかず眺める。だがある日、山は燃えた。天地を圧するような轟音と共に空は妖色に染まり、ゆらめいた。大きな鳥が稜線をなぶるように幾羽も飛んだ。白い炎は煤と混じり、鳥は息たえだえに湖に降りた。降りられた鳥たちはまだよかった。翼の一部が欠け、命の終わりを告げる叫びと共に湖面に砕けちる鳥たちを見ながら、娘の鼓動は嵐のように跳ねた。娘は叫び、泣き、岸辺に倒れた。何もできない自分を引き裂きさいた。目を上げる。ガラスの鳩が並んでいる。娘はドレスの裾を泥でふちどりながら立ち上がる。鳩を取り上げると、今までにない強さで息を吹き込む。唇が振動で震える。

テュス!!!

 紫色の炎が燃えた。娘は鍵を取り出すとぎりりぎりりと巻きしめた。思う様高くかざし放つ。次の鳩、また次の鳩。炎はさらに赤くなり、赤紫から赤へ、紅蓮へと変わる。娘の唇はますます凍り、手はしわを増す。鋼はキリキリと音を立ていまにも弾けるように鳴く。鳩は飛び続ける。山を目指し、彼方を目指し。だが稜線を越えたものは一羽もなく、すべて砕け散りガラスの雨を降らせた。娘は最後の鳩を手に取ると、すべてを吹き込んだ。命のすべて、吐息のすべて炎のすべて。炎は血の色で燃えた。娘はぜんまいを巻きつくし、弾ける寸前で空へ放った。鳩はまっすぐに飛び、山の稜線をかすめると彼方に消えた。大きな鳥が、あるものは翼を広げあるものは首をもたげ、こときれんばかりに鳴いた。湖が震えた。その音を耳にしたのかしなかったのか。うずまき模様の鍵がぽとりと落ちた。老いた手が一対、片方の手は鍵をつかんでいる。


〈了〉 

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