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キッコロとモリゾー

布団に入っても眠れないから、グダグダと何か書こうとしてるなかで、愛・地球博(愛知県・2005年)から20年ぐらい時間が過ぎていることに気づいた。

たしかに、最近あのキャラクター見ないなと思ったが、そりゃそうだ。20年も経てば、キッコロはともかく、モリゾーは怪しい。介護施設とかで余生を過ごしてると祈りたい。キッコロは多分、忙しい時期なんだろう。

そんな事はともかく、実は私、愛・地球博に行ったことは無かった。と気づいた。 

だから、愛・地球博というものがどういうものだったか、私自身には記憶も記録もないのだ。
私の場合、どちらかというと、キッコロとモリゾーの記憶なのである。

たしか、NHKかなんかでキッコロとモリゾーが出てる番組があったなとか、そんな感じのぼんやりとしたもので、記憶としての解像度はとても低いもの。でも、20年近く経っても呼び出される記憶なのだから、何か思うところはあったのだと思う。



この感覚って、なんだろう。
昔みたテレビのローカルCMでも似たような感覚がある。
関西地区で言えば、とんかつKYK、8710、洋菓子のグリン
東海地区で言えば、両口屋是清、洋菓子のボンボン、台湾ラーメン味仙
とかか。。

このあたりの記憶って、その店そのものよりをそれを見た背景とか場所が出てきたりする。

小学生の時、風邪で寝込んで休んでた昼下がりに点きっぱなしのテレビから流れてきたり、晩ごはん食べて、19時からのアニメを待ってる時に流れてきたり、その情景が出てくることが多い。
そして、これはまさに記憶なのだと思う。

もう一方、Youtubeとかで検索すると、案外その当時のCMって出てきたりする、これは記録であり、当時のそのものを呼び出して、再現している。

そして、実際にYoutubeでCMをみると、懐かしいと思える反面、こんなんだっけ?とか、記憶との差分を感じることが多い。どうしてなのだろうか。

そして、味覚に対しても同様の体験をしたことがある。小さい頃、毎週火曜日のサザエさんぐらいの時間になるとやってくる移動販売のラーメンを30年ぶりぐらいに食べた時だった。

小さい頃は世界一は言い過ぎかもしれないけど、とっても美味しいラーメンだと思ってた。少なくとも近所のジャスコで食べるラーメンよりは100倍美味いと思ってた。

でも、現状は記憶と違った。いや、おそらくはラーメンは殆ど変わってないのだと思う。変わったのは自分の方だ。

でも、もうあのラーメンの記憶にある感情は、其処にはない。現実がキラキラしてた記憶を汚していく。 悲しいがもうどうしようもないのだ。

今日も移動販売のラーメン屋のトラックが近づいてきた。あの日と変わらない、あの不協和音まじりの音を鳴らしながら。

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