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教授の矜持、山本理顕 〜突撃、例の建築家の手すり ②


教授について

まずは、「教授」について書く。

坂本龍一が、神宮外苑の開発に対して立ち止まれという、遺言を残して旅立たれた時、ああこの方はやはり清志郎の友達だなあ、と思った。

自分がリアルタイムで映像として知っている教授は、ダウンタウンのハマタに仏頂面でシャープペンシルの尻の消しゴムを投げつけたりしている、シニカルかつコミカルな姿なのだが。

彼らの共作である「いけないルージュマジック」は幼い頃に聞いたような記憶はあった。ただ、YMOにはそこまで興味を持たずに生きてきたのだが(教科書に載ってた古典文学、みたいな扱いだ)、忌野清志郎がこの世から去った時に、彼に対するシンパシーを訥々と語っていたりして、ああこれは肝胆相照らす仲だったのだなあ、と思った。

そして、彼が社会的にコミットする責任を意識するアーティストであることも知っていた。清志郎がかつて「日本の原発は安全です」とサマータイムブルースを歌い、このアルバムは素晴らしすぎて発売できませんという素晴らしいコメント付きの新聞広告を東芝EMIに発出させたように、教授も六ヶ所再処理工場の稼働を止めようという運動をしていたのだ。
だがその運動は、アートによる反対運動を行うという、今なら意識高い系と分類されそうなものだったので、悲しいくらいに一般層にスルーされて終わった。その無力感、敗北感はいかばかりだっただろうか。

だがその次に彼は、more treesという森林保全の団体をはじめた。森林破壊に対して、抗議するだけではなく、今度は自分たちがそれを守り育てるための手段を持つことを追求したのだ。敗北から学習し、また立ち上がる芯の強さを感じる。流行り言葉ならレジリエンスか。
(ちなみに、そのプロジェクト第一号の森が高知の梼原町にあり、そこで接点ができたのだろう、この団体の現在の代表は隈研吾氏が引き継いでいる。彼は不遇の時代に梼原に溶け込む木の建築群を協働してつくり、そこを自らの再生の町、第二の故郷としているのだ。)

そしてがんとの闘病という、またしてもその友達が通り去っていった道すがら、こんなに一音一音が粒立った、優しくも鬼気迫る演奏を残し、

それすらも難しくなっていた最後の時間に、神宮外苑の再開発について、異議を残して去られたのだ。

そのことが、桑田佳祐やアジカンの後藤くんなどに勇気を与えて波紋が広がった結果、その再開発における、不動産業者と行政の不自然なふるまいが多くの人に注目されて、結果としてそれをスピードダウンさせることとなっている。これからどうなるかは、まだ予断を許さないけれども。

今回、山本理顕という建築家について書こうと思って、その補助線に教授こと坂本龍一を選んだのは、どちらも妥協を許さない職人であり、また戦いの人であるからである。

理顕さんについて

山本理顕は、地と図の関係を意識的に操り、緻密に組み立てる建築家という意味で、4分33秒のあいだ一音も弾かない曲を発表したジョン・ケージに若い頃触発され、音とバックグラウンドノイズの関係を組み立てることを意識的にやっていた教授に似ている。
そして、図により切り取られた、かつて空白だった地の部分を、社会との結びつきのための機能部に使うところが彼の設計の真骨頂なのだと思う。

ドラゴン・リリーさんという幼稚園の先生とエンジニアのパートナー、フラワーコーディネータのパートナーの母、そして里親として受け入れる子供ふたり、あと猫(ベッドが描いてある!)が暮らす住まいの設計を行った際、彼は手書きスケッチでその建物がどんな事を考えてつくられたものか、その里子ちゃんたちでも分かるような絵本を描いている。
この建物は、それぞれの住まい手に必要な空間を調査で割り出してそれを配置し、それぞれの隙間の空間が、住まい手や、その外の人々との何らかの関係性を生むように工夫されている。

個人的に、この本のあとがきが好きだ。

でも、どんなところに行っても、そこに住んでいる子どもたちは、
なんであんなに生き生きしていたんだろう。
みんないっしょに暮らしていたからだと思う。
自分の家の中だけじゃなくて、隣の家も、そのまた隣の家も、
畑も道も村も森も皮も湖も草原も砂漠も雑木林も、
みんな子どもたちの場所だったからだと思う。

ドラゴン・リリーさんの家の調査 くうねるところにすむところ21 子どもたちに伝えたい家の本 
著者 山本理顕 インデックス・コミュニケーションズ刊  

山本理顕も、実は先に取り上げた隈研吾とおなじく、原広司の門下生であり、イランやモロッコの集落調査に同行している。まちの成り立ちが、家だけでなくその全体でどうなっているのかを調べた体験が血肉になっているのだ。そして、そこの子どもたちがどのように暮らしていたか、しっかりと覚えていることが、このあとがきからわかる。

われわれは、日本にいると、社会というものがどういうものかについて、いつの間にかぼかされてしまいがちだ。えてして、社会という他者の集まりとしての集合は、世間という同じ価値観を持った(という幻想に基づいた)集団のことだと思い込まされ、そのような振る舞いを当然に行う人々に、その価値観もまた当然であると思い込まされる。

そこに抵抗するには、それに対しての違和感を感じる心が必要で、でもそれをあらかじめ持っている子どもたちと、世間が社会だと思っている親や学校とが接触すると、不登校や、親殺し子殺しとして表面化する。
日本国憲法が守られていない学校の校則ひとつをみても、屁理屈でなく子どものほうが正解、と言いたくなる場面は多々ある。子供は親の所有物として振る舞う親も、まだまだ多い。

でもその本質は、他者を他者として、その存在そのものを認めることができるか否か、という点だけなのだ。子供も立派な他者である、という認識を、親は常に試されるのだ。

山本理顕は、彼らが育つところがどのようであるべきか、を常に考えているのだろう。自分たちと他人とのあるべき繋がりについてである。言い換えれば、「世間」ではない、「社会」と個の接続の、あるべき姿についてだ。

そんな彼だが、建築界では戦う男としての認識もまた強い。

2002年に公開コンペで勝ち取った邑楽町庁舎の件では、その後に住民ワークショップを踏まえて実施設計を練ったところに、市町村合併問題をはらんで計画見直しの公約を掲げた市長が当選。手切れ金のように設計料を満額払った上で反故にされた。
だが彼は、公の選定、住民参加のプロセスを無視されたことに対して、コンペ参加の他の設計者にも声をかけて2006年に裁判を起こした。最終的には建築設計者の志について裁判所が理解を示し、市はそれを明文化して遺憾表明したところで和解となっている。

この件の原因も、そのまちの人の関係を、町役場というハコを通してより暮らしやすく再構成したいと考える彼と、これまで通りでいいのに余計なことをするな、とする世間との軋轢と捉えられるだろう。

最近では名古屋芸術大学の学長として招聘され、新校舎を設計した際にそのグレーな法人運営について意見をしたら辞めさせられ、設計料も未払いとなったので、裁判に訴え勝利したばかり。長くなるので詳細はこちらから。

そして本年、彼はプリツカー賞という、建築界のノーベル賞に例えられる栄誉を受けるのだが、その喜びに浸るどころか、現在アンタッチャブルとして扱われているように見える、大阪万博夢洲会場の、藤本壮介の関わっているアレについて、批判を行った。
時系列的にはそう見えるが、批判のほうが先にあり、黙殺されていたそれが受賞により取り上げられた、が正しい見立てだろう。受賞が3月7日、話題になった批判文が掲載された建築ジャーナル3月号が2月26日発売だからね。

なお、ここではそのアレについては語らない。
その手すりは映像で見たところ、特に論評に値しない。それに触れる人々に何らかのインフォメーションを与えたいという、積極的な意思が感じられないのだ。もしくは、触れてくれるなということを伝えているのかもしれない。

だが、建築家の職能を賭けて戦ってきた山本理顕が、この件での藤本壮介の振る舞いについて批判するのはよく分かるし、同意する。
この件、そもそも藤本壮介は原案者であり、細部までその案を現実化する手段を図面に焼き付けた設計者でも、それに沿った出来上がりをコントロールする立場の監理者でもないのだ。
だが、なぜか彼は設計者として対外的に振る舞う。出来上がったものに責任を負わないない立場から。
それをしたいのなら、どんな事情があるのであれ、他社と共同でも設計業務を行うべきだった。

だが、いまの彼のその態度は、ひとことで言えば鵺そのものである。


山本理顕の、これまでの喧嘩歴を、ザックリではあるが知るものとしては、彼の今の振る舞いに噛みつかないわけがないだろう、と思わざるを得ない。
前川國男などの先人が一歩一歩固めてきたその地歩を、あの万博のアレに関しての藤本壮介はすべてひっくり返しているのだ。
公的な建物の社会との関わりを熟考し、かたちにする人間として、そのアバウトさは到底承認できるわけがないだろうな、と思う。


山本理顕を教授(坂本龍一)になぞらえた理由、長くなりましたがご理解いただけただろうか。

似てるでしょ?その繊細かつ緻密な空間を生み出す作風だけでなく、その不器用かつ、戦いを厭わない、でも嘘のつけないストレートな生き様が。

というわけで、広島遠征で見てきた、これの話にやっと入れるのだ。

広島市西消防署(2000)


ご本人による解説はこちら。


ここの特徴は、建物を外周と内周の二層に分けて、内周を消防署の機能部、外周を誰でも出入り自由な空間としていることだろう。

環境配慮の観点から言えば、直射日光などの外からの輻射熱を浴びる部分は、できるだけ外壁から離れた部分で受け止め、室内にその熱を入れないようにデザインする。
近年の公的建築では、窓の上になんだか平行な板(ルーバーという)が設置されていたりする例が多いのだが、あれは日本家屋におけるすだれの役割を果たしているのだ。

残念ながら前の道は工事中
管理室に声掛け記名して入ります

この建物の外周部も、もちろんその機能を持っているのだが、ここはルーバーの面積と角度を調整して、避難の関係で必要とされた外部扱いになるようにしているとのこと。
つまりあの外皮は、建物における室内と室内の法令的な境界線の、髪の毛一本分だけ室外側、を形にしたものなのだ。それを知るとちょっと哲学みのある外観に見えてくる不思議。


そして、社会科見学に来た小学生になりきり、階段を上がる。

先端に平坦部をさりげなくつけた手すり

ちなみにここの手すり、先端の平坦部で、降りてきた調子乗りの小学生に飛び出すな!のニュアンスを伝えている。斜めで終わると、スーッと飛び出しちゃうのです。

支持部が少なめなところに建築家魂が

このゾーンの手すりはステンのφ40くらいの丸棒、で極めてシンプル。でも、平坦部まで水平にしっかり伸ばして壁側に曲げて納めたり、折り返し部はU字形に繋げたり、手すりの先端が小さい子の頭などに刺さらない配慮は完璧である。抜かりない。

この外周の動線を昇って、4階に向かいます。
そこにはちょっとした展示室があり、見学の目的地になっている様子。

こんな建物ですよ
床も展示スペース

1945.8.6以降の広島市消防局の働きも、きちんと記録が掲示されておりました。忘れないし忘れて欲しくないと無言で訴える、そういう事物がこの都市には至る所にあります。我々はそれを受け取る、まずはそこから。

でも実は、ここは真の目的地でないことはすぐにわかる。その展示室の外側は内部の吹き抜けになっているのだが、そこには最高のエンタテイメントの舞台があるからだ。

福本伸行のマンガかな?(手すり付き)

好奇心の赴くまま、5階に上がります。

こちらの手すりはステンレス平板、角は丸めてます

鉄骨渡りに見えたアレはH鋼ではなく、意外に幅はあった。訓練用の通路ですね。屋根の梁材から吊られている、ということは訓練は全天候で可能ということである。
ここの手すりは利用者が限定されているので、格好いい、にほぼ全振りぽい。空間構成のための一要素として思う存分に活躍している。

そして、このブリッジの左に並行してロープが渡してあり、消防士さんが日夜ぶら下がり訓練に励むのだ。

小学生なら、口をあんぐり開けて夢中で見入るか、大歓声で応援するか、だろうか。間違いなく心に残ることだろう。
残念ながら、週末のサッカー観戦のついでに黄緑のユニフォーム姿で押しかけた、この日の見学者である大きい元小学生にはそのエンタメは供されなかったが、そんなシーンを想像することはできた。

そして、ここの図面を引いていたときの理顕さんも、さぞかし至福だっただろうなとも想像できた。リートフェルト・リスペクトだね。

その、すげーやつを楽しくつくりました、な高揚感を隠し切れないステージで、戦隊ヒーローのようなスゴワザ消防士の皆さんをここで20年ほど前に見た小学生も、そろそろ消防士の訓練に励み、精鋭レスキューになっていても不思議はない。


こうやって、建物が地域の役に立つということを目指すときに、抜かりのない手すりを持つ社会との接続点としての建築を、未来の消防士のための広報教育機能まで見通してつくる山本理顕は、やはり教授という通り名にもまた相応しいのではないか、と思うのである。

そのうち、横須賀の美術館も見に行かねば。あちらにもお得意のブリッジがあるみたいだしね。 


第一回 隈研吾編はこちら。

※参考文献



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