見出し画像

日記 '22/11/17

 本日は、villa ashitaniにて開催された潜在意識の勉強会へ参加してきた。この頃、施術をしていてなんとなく気に掛かっていた事と通じるものがあるように感じ、参加しに行ったけれど、やはり通じるものがあったように思う。ただ、今回だけでは詳しいことはまだまだ理解しきれて居ない。今後の探求がますます楽しみになる、そんな機会となった。潜在意識の世界、なかなか奥深いなあ…!

 今日は、読んでいた文章を二つほど引用してみたいと思う。一つ目は、早川ユミさん著「野生のおくりもの」より、著者の早川ユミさんが音楽家の青葉市子さんについて語っている箇所。ぼくの思いと共鳴するものがあったので、引用しておきたくなった。まず、早川ユミさんは音楽を現代のシャーマニズムと言う。

音楽は現代のシャーマニズムです。音楽家は自然とわたしたち人間の世界をいったり、きたりしてつなげる媒介者です。音だま、見えないものをみせてくれるのです。いまここに、銀河や虹や雲や星空を見せてくれるのです。
野生のおくりもの. p264

 音には【ちから】がある。音は人間の想像力を膨らませ、感覚力を鋭くするような働きがある。その【ちから】に導かれるように、現代の人々が忘れてしまいがちな自然との繋がりを揺り動かしてくれる媒介者が、音楽家という存在なのだ。

 目には見えないけれど、深く深くつきささるもの。それが、彼女の魅力なのです。トゲをもっている。ちいさな市子ちゃんの想いがわたしのこころをつよくうごかすのです。いったいどこで、このトゲの表現の感性をまなんだのだろう。
こころにつきささる激しい気もちを抱きながら、手には素朴な野の花束を持っているのです。彼女に会うと、ちいさな花束を、子どものような目と手で、わたしにそっと手渡してくれるのです。すると子どもの野生の感覚がわたしのなかに、くるくるともどるのです。
 地ベたに咲く野の草花は、咲いて、散ってをくり返します。野の草花はたおやかで、しなやかでいて、けれども時には指を切るトゲや毒をもっています。音や詩のかけらで、ちいさな花束をつくり、音楽を具現化しているひと、市子ちゃんの歌もまた、野の花束のように、しなやかさと、ときにトゲや毒で手を切ってしまう存在なのです。
 だから、市子ちゃんの音楽は、ことばを超えて、わたしたちのこころにつきささるのだろう。想いが深ければ、深いほどトゲや毒のあることばが、こころに突き刺さって、ちくちくと、はなれないのです。
野生のおくりもの.p265-266

 早川ユミさんが語る、青葉市子さんの魅力。ここに引用した文章だけでも、どんな音楽をつくっているのだろうと好奇心がぐんと惹きつけられる。ぼくがnoteなどへ文章を書くときに、本音でまっすぐに書こうと思うと、ことばにトゲや毒が入ることもしばしばなのは自覚している。少し気にしても居たからこそ、この文章を読んだときに感化されるものがあった。
 ぼくも市子さんの「こころにつきささる激しい気もちを抱きながら、手には素朴な野の花束を持っている」ような表現をしていきたいと強く思った。表現と云うようも、むしろ「在り方そのもの」と言ったほうがよいのかもしれない。激しい気もち、深い想いを大事に胸に抱きながらも、人へ差し出す表現は素朴な、野の花束のように。たおやかで、しなやかに在りたい。
 ただ、”そこ”へ触れる人がふとしたときに、ぐーっと奥までつきささるようなトゲや毒を秘めた、ちゃんと”芯”のある感性があってこそ、表現は単なる娯楽を超えて現代のシャーマニズムへと変貌する。音楽に限らず、あらゆる表現に於いて通ずることであり、市子さんの音楽はひとつの道標となるような存在であると思う。

 二つ目は、高瀬正仁さん著「ガウスの遺産と継承者たち  ドイツ数学史の構想」に寄せた杉浦光夫さんによる書評である。杉浦さんは高瀬さんの本書を読んで「私は非常に大きな抵抗感を感じたのであった」と告白している。続いて、次に引用するのは高瀬さんを理解する上でとても有益な発言であると思う。

より実質的な抵抗感の原因として、著者は現代数学を判断の基準にしてはいないということが挙げられる。現代数学の中で創造せざるを得ない現場の数学者にとっては、これが非常に問題になるのである。数学者がその仕事の場で現代数学から離れることは困難であるが、数学史を考えるときには、一応それを棚上げして、ガウスならガウスの時代に帰って考える想像力が必要とされる。そうでなければ、ガウスが問題にしたのは何かを考えるとき、現代的に興味のある部分のみが大きく映った歪んだ像しか得られない。現代数学に固執しなければ、著者の立場は、はるかに理解し易くなるように思われる。
https://www2.tsuda.ac.jp/suukeiken/math/suugakushi/sympo01/01sugiura1.pdf

昨日の日記('22/11/16)で書いたことをここでも転用するならば、現代の数学とは「知能の数学」であり、対して高瀬さんの求める『岡先生の数学』はそれとは別種の何物かである。ぼくの見方では、これは本能の数学と呼ばれるべきものであり、すなわち『情能の数学』である。不易と流行で言えば、前者が流行であり後者が不易に当たる。だから、前者に主眼を置く杉浦さんと、後者に主眼を置く高瀬さんとでは視点が異なるのであり、それゆえに高瀬さんの著作を読んだ杉浦さんは「非常に大きな抵抗感を感じた」のである。
 引用文は極めて重要なことを含んでいる。いま述べたように、高瀬さんは「現代(の)数学を判断の基準にしてはいない」ので(!)、杉浦さんが代表するような「現代数学の中で創造せざるを得ない現場の数学者にとっては、これが非常に問題になる」のである。これは、高瀬さんが数学史研究を行う人の中でも独特な異彩を放っている確たる証拠である。かくいう杉浦さんも、数学史に造詣が深い人であることはよく知られているが、その杉浦さんがこのように書評を寄せていることが、引用部分の価値を充分に高めているように思う。
 今の現場の数学者は、論文を書いてそれが受理されることで、数学者としての仕事が認められる訳だが、その際は数学業界と云うコミュニティの枠に収まっている必要がある。だから、杉浦さんが言うように「数学者がその仕事の場で現代数学から離れることは困難である」のだが、歴史を省みて古典に潜伏するときには、それを一旦脇に置いておいて「ガウスならガウスの時代に帰って考える想像力が必要とされる」のが数学史研究の急所である。言うは易く行うは難しで、高瀬さんはその困難な「数学史を考える」という営みを適切に実践している数少ない方なのである。
 ぼくは高瀬さんと志を同じくして、大学(理学部数学科)に在学中の際、数学を「知能の数学」から『情能の数学』へと視点を移した経験がある。だから当然、現代(の)数学には全く固執して居らず、そのため高瀬さんの立場については「はるかに理解し易くなる」どころか、非常に強い共鳴と共感を受け、瞠目した日の印象を鮮やかに覚えている。杉浦さんの書評をみれば明らかなように、数学業界で通用するのは「知能の数学」であり、そこに『情能の数学』が成育する可能性は絶望的に皆無である。しかし、諦めてはいけない。われわれは数学業界から真に独立し、そして『情能の数学』を成育するための新しい道を模索してゆく必要がある。そのとき、研究者の姿はなにか特定の機関に従属する形から、初めて真に独立した形を確立することができるようになると思う。
 志を同じくして共鳴し共感を寄せる人々との巡り会いを楽しみにしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?