見出し画像

与えられた舞台


昨年末に聞いてからずっと考えているものの答えが出ない話があって、一度頭から放したいのでここに書いてみることにする。

某社の社長が、迷走真っ只中の私に贈ってくださった例え話。
とてもざっくりですが、ご紹介します。
(うろ覚えなのでかなり脚色している。)


『田舎娘のパリコレデビュー』

田舎で暮らしていた冴えない娘さんを、何の説明もなしに突然パリコレの舞台に連れて行き、ランウェイに立たせる。
すっぴんに寸胴、振る舞いも心許無く完全に場違い、まともに歩くこともできないまま大恥をかいて終わるだろう。それでも毎日ランウェイを歩かなければいけない状況になったらどうするか?
泣いてばかりいられないと、見様見真似で口紅を塗り、歩き方の練習をする。それを見かねた周りの人間が手を差し伸べはじめ、時間をかけて立派なモデルへと成長していく。

もし、この娘さんが田舎にいた頃に「パリコレに出ないか?」と誘われていたらどうなっていたか。
憧れこそあれど、自分なんてとても……とか、今はまだ考えられない……とか、言っていたはず。その準備は、舞台に立たない限り永遠に出来ることはなかっただろう。

と。

この話の肝は、“未熟でもやってみないと何も始まらない・とにかくステージに立ちなさい”という部分なんだと思う。
最初に聞いた時は「こんくらい強引に舞台に上げてくれる大人が現れりゃ迷わなくてすむんだけどな」とか思ってしまったが。考えれば考えるほど、娘さんの意思は始終丸無視のまま美談のように締めくくられていることに違和感を持つようになった。

日頃から「田舎育ちだけど絶対有名モデルになってみせる!」みたいに言ってる子ならまだしも、その子はもしかしたら漫画家になりたかったかもしれん。
それを周りの大人が、「パリコレ=成功」という価値観を押し付けてその子の本当の気持ちに蓋をさせて、「きらびやかな舞台に立ったら両親が喜んでくれる」とかいう動機で頑張らせてしまうのだ。
両親はそら鼻高いだろうが、そのうち「平凡に幸せになってほしかったのに遠くにいってしまった」とか思うようになる。
モデルとして大成し、富豪の男性に見初められたとしても、結局価値観のずれに耐えられずコンビニスイーツに安心感を覚えたりするのだ。

この子は誰のために舞台に立ち続けて、どうなるために頑張っていたのか?

ともあれ、得たものは間違いなく大きかったと思う。
が、仮に漫画家の道を再び志したとして、商業的に「元パリコレモデル」という部分ばかり取り沙汰されることをそう簡単に割り切れるだろうか?
彼女の本質は、一体誰が見るの?


半端に生い立ちが似ていたこともあって、つい主観でいろいろと想像してしまった……。
意思決定の機会を奪われ、他人を動機に生きることへの警鐘が年々大きくなる。
正直少し前までは引っ張り上げてくれる大人の存在に期待していたけど、どんなにお膳立てしてもらったとて自分が心からやりたいことは自分にしか分からないし、そうでないと二つ返事はできないのだと痛感した。

もう今はかなり「好きなことを全力でやった者勝ち」の時代になってきたので、生き方を強いられる機会自体は減っている。
幸福な生き方のモデルケースが皆に当てはまらなくなっているからこそ、自分にとって居心地のよい場所を膨大な選択肢の中から選び、作っていかなければならない。
与えられた環境の中で与えられた課題をこなすことが優秀だとされる教育の影響はとても大きくて、流れに乗れないタイプの人間はとても生きづらい。
誰のせいにもしないで、自分で決めて、自分で課題を見つけて、解決策を考える。そういう経験がしたい。

口ばかりで何も結果を残していない人間の言葉なので説得力はないのだけども。自分の生き方でしか、答えは出せないね。


そのうち私が引き上げる大人側になる時がきたら、
なるたけ沢山のものに触れる機会をつくり、
その子が興味を示すものに対して寛容でありたいと思う。

読んでくださりありがとうございます!サポートしていただけると大変励みになります。