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絵に執着する理由

自分の中のもう1人というものを、私は結構はっきりと認知している方だと思う。対話までしたことはないが。

誰にでも複数の顔があって、器用に使い分けている人もいる。
私の場合は裏表とかon offのそれではなくて、大人と子供の人格がそれぞれ存在している。どちらが主人格なのかは決めきれなくて、どっちから見ても「もう1人」になりうる。
ただ、大人の自分は今まで受けてきた教育や周りに言われたことのような外的要因から成り立っている感覚があるので、願わくは子供の自分が本質であってほしいと思う。

子供の人格というのは大人への過渡期の中で否応なく邪魔にされ、「無い方がよいもの」「あっても役に立たないもの」として煙たがられるようになる。
そこで上手に大人に切り替えられなかった私のような人間は、大変生きづらい思いをすることになる。そうとは分かっていても、どうしても子供の魂を持ち続けている人に惹かれてしまう。


額縁とパネルにまみれて足の踏み場のない部屋でまともに寝ていない顔をしながら個展の準備をしていた頃、何度も転職を繰り返す私に呆れた兄には「あいつは何も考えてなさそうで嫌」と言われていたし、展示を見にきてくれた弟には「で、ぶっちゃけ黒字なん?」と身も蓋もないことを聞かれてぐうの音も出なかったりした。
身内に馬鹿にされてでもしがみついていたのは、子供の自分を守りたいからに他ならなかった。
夢見がちで、現実にはありえないことにワクワクする自分を好きでいていいと思えるのは、絵のことを考えている時だけだった。

職種によるかもしれないが、基本的にそういった感性は社会生活において無用とされるので、押し殺すために辛い思いをしている人も少なくないのではないか。その辛さを癒す手段として「絵」という表現方法を知っている自分はすごく恵まれている。
かと言って絵ばかりにかまけていると、大人の私が許してくれない。安全圏から文句ばかり言って色々なことを諦めようとする大人の私を、子供の私は絶対に認めてくれない。
どちらの人格が欠けても私ではなくなってしまうので、どちらも守ってやりたい。だからフルタイムで働くし結婚もするし絵も描くし空想もする。
描くことそのものに喜びを見出しているというよりは、絵に接する時間を作らないと人格のバランスが取れないという方が的確かもしれない。

続けるために仕事にするという手もあるが、そうなると間違いなく大人の私が頑張らなければならず、結局子供は置き去りにされる。
ただ描ければいいというものでもないから困ったものだな。

大人の私がもうちょっと、無駄に対して寛容になってくれますように。
私は自分の花畑の花の名前を全部言えてどんな植物なのかをにこにこ説明できるおばあちゃんになりたいのよ。

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