明智光秀・秀満:ときハ今あめが下しる五月哉 (ミネルヴァ日本評伝選 196) ( 小和田哲男 (著)

信長を謀殺した反逆者というイメージの明智光秀とは、いったいどんな人間だったのか。
ああ、NHKの大河ドラマ「麒麟が来る」の長谷川博己だ、と思ったらもったいない。

本書を読みながら、ドラマに描かれている光秀は、ほんの一部に過ぎず、実際は謎と陰翳に満ちた人物だと実感した。
さすが「歴史を動かしてきたすぐれた個性をいきいきと蘇らせたい」(刊行の言葉)を目指す日本評伝選(ミネルヴァ書房)の1冊だけのことはある。

筆者の小和田哲男さんは、日本の中世史を専門とする元大学教授。「麒麟がくる」の時代考証も担当している。通説に頼らず、光秀に関する幅広い本をにほとんど目を通し、1から組み立て直している。歴史研究の神髄を見る思いがした。

さて、謎が多いと書いたが、この本は冒頭から謎だらけだ。
「麒麟が来る」でも、光秀はいきなり青年になって登場してくるけれど、生まれた年についてこう書かれている。

享禄元年(1528)が通説となっていたわけであるが、以上みてきたように、永正13年(1516)の可能性も出てきた。

少なくとも豊臣秀吉や徳川家康よりはかなり年長だったことは、複数の文書から明らかであり、今後の研究課題なのだそうだ。

出生地についても、すんなり分からない。これまでは岐阜県内の3カ所だが、議論が続いているらしい。

その光秀が世間で注目されるのは、織田信長との関わりができてからだ。室町幕府15代最後の将軍足利義昭と信長を結びつけ、信長に重用された。義昭と信長は、後に対立する。光秀は信長側につき、天下統一に向け貢献し、トントン拍子で出世する。

中でも比叡山焼き討ちでは、信長の指示を忠実に実行した。

また通説では、光秀は焼き討ち直前になって計画を知らされたとされていたが、小和田さんは10日前には光秀が動いていたと書いている。ちなみに、この焼き討ちで3000人以上の僧侶を無残に焼き殺されたとされてきたが、最近は焼き討ちの規模はもっと小さかったとの見方が出ているという。

忠臣・光秀がなぜ、本能寺の変を起こしたのか。日本史の最大のミステリーとも言われるこの事件について、小和田さんは天正10(1958)年の武田勝頼との戦いが鍵になっていると見る。この時に光秀は、信長の狂気を垣間見ていた。

武田攻めのとき、光秀の眼に信長の暴走と映ったもう一つのできごとがあった。それが武田氏の菩提寺である恵林寺の焼き討ちである。武田氏の菩提寺であるというだけでは信忠率いる織田軍も火をかけることはなかったたと思われるが、この恵林寺に、信長と敵対した近江の戦国大名六角氏の残党が逃げこんでいて、その引き渡しを命じたところ、寺側がそれを拒んだのである。

信長側は、寺にいた150人の僧も含め、残党を無残に焼き殺した。その中に、光秀と近い関係にあった快川紹喜も含まれていた。美濃出身で、土岐一族出身とも言われる高僧だった。朝廷から国師号を受けた僧侶(快川)が焼き殺されるのを、光秀は複雑な思いで見たのではないかと思われると、小和田さんは分析している。

さて、いよいよ本能寺の変が近づいてくるわけだが、どうして光秀は主君殺しに踏み切ったのか。この理由についてはなんと50以上の「説」があるという。本書198ページに一覧表があるが、まさに壮観。日本人が、どれだけ逆臣・光秀に魅了されたかの証明でもあろう。

一般的に言われているのは「怨念説」だ。日頃から信長にパワハラを受けていた秀吉は、耐えかねて命を狙った。この説は、よくビジネス書にも引用される。だから、部下には気を配れという例になっている。俗耳に入りやすい。

しかし小和田さんは

怨恨説、野望説、そしてこの突発説にしても、いずれも光秀個人の感情というものが柱になっている。しかし、本能寺の変は、そうした個人レベルの問題ではないのではなかろうか。政変であり、光秀のクーデターとしての側面で本能寺の変をとらえるとき、これら怨恨説、野望説、突発説はあまり意味をもたないように思われる。

と、否定的だ。逆に、信長の四国攻めの際、光秀は板挟みになり左遷の危機にあった。これを回避するため、本能寺を襲ったという説が有力になっているという。

できれば、タイムマシンに乗って確かめてみたい。そこまで行かずとも大河ドラマ「麒麟がいく」がどう解釈するのか見物である。

さて本書の読みどころは第8章の「光秀の人となり」だ。光秀は、会社で言えば途中入社の出世頭だった。同僚たちからは快く思われていなかった。しかし、光秀が治めていた領地の人々は、神としてまつっているところもある。

関連の古文書からは、家臣に気配りする温厚で穏和な人だったことが分かるという。

つまり、秀吉の豪放磊落、傲慢な性格に対し、光秀は謹厳実直、慇勲だったというのである。おそらく、何か失敗して信長から何かいわれても、秀吉はおどけて済ましたと思われるが、光秀は内にこもるタイプだったのではないかと思われる。光秀はまじめな秀才タイプの武将であった。


時代を動かすのは、光秀のような複雑な人物なのかもしれない。現在のような閉塞感の強い時代、光秀への関心はますます高まるだろう。

小和田哲男さんの公式サイトはこちら

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