ブレヒトの詩「マリー・Aの思い出」―スモモの木の下で
「マリー・Aの思い出」は、「おそらく、もっとも美しく、もっとも感動的で、疑いなくもっとも有名なブレヒトの恋愛詩の一つ」(Jürgen Hillesheim)とされている。また、ブレヒトの詩の中でもとりわけ解釈が多い詩だとのこと。
ちっとも知らなかった。
ドイツ語版Wikipediaには"Erinnerung an die Marie A."の項目があり、さまざまな解釈が紹介されている。
ここでは主にこれを参照しながら、詩を訳し、僕自身の解釈を示す。
■ヨジロー訳
■語句の説明
青い月――「月」は原詩でMond。これは本来は天体の月のこと。ただし、Mondには雅語で、暦の月(Monat)の意味がある。ここでは暦の月のこと。
スモモ――プラムと訳す方がいいのかもしれないが、詩的でないような気がするのでスモモとした。プラムは国語辞典では西洋スモモとされている。ヨーロッパのプラムは濃紺色。
たくさんの月――この「月」もMond。ただ、ここでは暦の月ではなく、天体の月。
■内容
◆第1連
過去にあったことを報告している。
青い月――なぜ9月が「青い月」なのだろうか。夏が終わりつつあって、太陽が弱まり、空の青さが際立ってくる月だからか。見上げていたその青空が雲とともに強く記憶に残ったからか。それとも、マリー・Aのモデルとなった女性が「青ざめた」「青白い」顔をしていた(とブレヒトが感じた)ことからきているのだろうか。それともスモモの濃紺が反映しているのだろうか。――おそらくこれら全体が入り交じって9月が「青い月」となったのだろう。
「僕」は、ずっと昔の恋人との抱擁を思い出している。
「そっと」「すてきな夢を抱くように」――「僕」がその女性をとても大事にしていたことが感じられる。異性とそんなふうに触れ合うのが初めてだったのかもしれない。
記憶に残っているのは、「とてつもなく高いところ」にある一つの雲だけ。それはマリーを抱いている間に見えたもの。しかし、短い抱擁が終わって空を見ると、雲はもう消えている。
◆第2連
空にかかっている月が、早送りで「流れ落ち 流れ過ぎて」いく。多くの時間が経過した後に、現在の「僕」は「君」に過去の恋愛のことを語る。
「君」とは誰だろう。おそらく現在の妻、あるいは恋人だろう。マリーとのことは、話せるくらいにもう古い過去になっているということだ。
「君」は聞いてくる、「その人とはどうなったの」と。「僕」は「もう思い出せない」と返す。
「もちろん 君が何を知りたがっているかはわかっている」――「僕」は続けてこう言う。でも、「君」は何を知りたがっているのだろう。
直後に、「でも彼女の顔を」とある。「君」が、「その人、どんなひとだった? きれいなひとだった?」と聞いてくると「僕」は思ったのだろうか。それとも、「愛してたの?」とか「今でも忘れられないの?」か。いずれにせよ、なかなか口にしにくいことだろう。
彼女の問いを想定して、「僕」はきっぱりと否定する。「本当にもう覚えていないんだ」と。もう昔のことさ、記憶からもほとんど消えているよ、と。
◆第3連
現在の「僕」が思っていることが述べられる。
第1連と同じく、「雲」に言及される。「雲」はかつての恋人――初恋の人か――とのはかない恋を象徴するものだ。キスとともに最高潮に達し、おそらくキスだけで終わった短い恋を。
長い時間が経って、恋人の顔がはっきり思い出せなくなる。しかし、雲だけが鮮やかな印象として残っている、というのはありうることだと思う。
スモモの木だが、第2連には「スモモの木々はたぶん 切られてしまったのだろう」とあったが、ここでは「スモモの花がひょっとしたら 今もまだ咲き誇っているかもしれない」とある。この矛盾が気になる。
スモモは、かつての恋人を表している。
第2連の「切られてしまった」というのは、「僕」にとって永遠に失われてしまったということだ。誰か別の男性のものになっているのだろう、ということか。第2連は「僕」の立場からだけ見たものだ。
第3連の「今もまだ咲き誇っている」というのは、かつての恋人のことを思った表現だ。「あの女性」が「七人の子持ちかもしれない」と関連している。夫と多くの子供たちに囲まれて、幸せな生活を送っているかもしれない、と想像している。
いや、想像しているだけではない。ここには、かつての恋人が幸せでありますように、という「僕」の願いもある。
最後にまた、「でもあの雲は ほんの数分間しか花開いていなかった」と、短かった若いころの恋をはかなんでいる。
未練というほどのねっとりしたものではない。しかし、ふとしたときに昔の記憶がよみがえり、当時のことをうっすら思い出すことがある。長い年月を経てすっかり色あせてしまっているが、漠然と寂しさを感じることがある。そのような心情を表現した詩だ。
■ブレヒトの事情
◆作者は何歳?
この詩を読んで、語り手の「僕」は何歳くらいの人物だと思うだろうか。
かつての恋人が今は「ひょっとしたら七人の子持ちかもしれない」と言っていることから推定すれば、「僕」は40歳あたり?
相手にも家庭があり、「僕」も今は別の女性と暮らしているのだろう、と想像できる。
ところが調べてみると、ブレヒトがこの詩を書いたのは、なんと22歳のときだ。1920年2月21日。2月10日がブレヒトの誕生日なので、22歳になったばかりだ。結婚しているどころか、まだ学生だ。
詩の「僕」と、作者であるブレヒトの年齢がこんなにもずれていることにびっくりする。どうしてブレヒトはこんな詩を書いたのか?
◆マリー・Aのモデル
マリー・Aのモデルは、マリーア・ローザ・アマン(1901-1988)だ。原語では、Maria Rosa Amann(Marie Rose Amannともされる)だ。彼女のことをブレヒトは、ローザ(Rosa)、ローザ・マリーア)(Rosa Maria)、ロースマリー(Rosmarie)、ロッスル(Rosl)、マリー(Marie)と呼んでいた。
1916年の初夏、18歳の高校生だったブレヒトは、アイスクリーム・パーラーで、15歳のマリーアと出会う。おそらくブレヒトにとって初恋だったのだろう。
しかし、結局ブレヒトはふられてしまう。後にマリーアは、東ドイツのドキュメント映画のインタビューで、「ロマンチックな空想(Wolkenromantik)」に身を委ねることができなかったのが主な理由だと語っている。
マリーアは、最初のキスの後、泣いたという。キスで子供ができると思ったからだ。
このままでは退学になってしまうのではないかと恐れたマリーアは、1917年の春、ブレヒトを友達のパウラ・バンホルツァー(Paula Banholzer)に紹介する。
つまり、マリーアはブレヒトと距離を取ったのだ。ブレヒトは失恋した。
1917年、19歳になったブレヒトは、高校を卒業し、ミュンヘン大学で医学を学び始める。この年の12月に、友人宛の手紙で次のように書いている。
若さからくる傲慢さにあふれているが、パウラと付き合ってすでに9ヶ月ほどにもなるのに、まだマリーアのことが忘れられないでいることがわかる。
パウラは1918年の終わりに、妊娠する。20歳のブレヒトは、彼女の父親に結婚の同意を求めるが拒否される。パウラは田舎にやられ、1919年7月、男の子を産む。その後、ブレヒトと関係が再開する。
ブレヒトが「マリー・Aの思い出」を書いたのは、1920年2月21日、22歳のときだ。それから半年後の1920年8月26日、ブレヒトは日記に次のようなことを書いている。
マリーア・ローザ・アマンに失恋してから4年が経っているにもかかわらず、まだ彼女のことを思い出している。なお、ブレヒトが彼女に言及したのはこれが最後とのことだ。
◆なぜ「僕」はブレヒトよりずっと年上なのか
以上のような伝記的事実を考慮すると、なぜブレヒトがこの詩の「僕」を40代前後に設定したのかがわかってくる。
ブレヒトはこの詩を、夜7時、ベルリン行きの列車の中で書いた。長い時間列車に乗っていると、後ろに残してきた日常がしだいに消えていく。すると普段忘れている過去のさまざまな思いが浮かんでくることがある。
ブレヒトもそうだったのだろう。当時、パウラとの関係は続いており、またおそらくヘッダ・クーンという別の女子学生ともつき合っていた。それでも、依然として残り続けていた思いが表出してきたのだ。
失恋の痛みを打ち消すために、ブレヒトは時間を一気に進め、自分とマリーアを20年先の未来に置いた。そうすることで、すべてを「美しい思い出」にしてしまおうとした。かつてこんなこともあったなあ、マリーアが幸せに暮らしていればいいなあ――そんなふうに思えるようになりたいと願って。
だから、彼女の顔を覚えていないというのは嘘だ。「もう思い出せない」「本当にもう覚えていないんだ」と強調しすぎていることが、逆にそう思わせる。
詩を書いているブレヒトはまだマリーアの面影を忘れられないでいる。しかし、20年後を設定することによって、彼女の顔を「雲」の背後に隠そうとしたのだ。
つまり、この詩はマリーアを忘れるための詩だ。
◆題名について
ブレヒトはあとでこの詩に、「センチメンタルな歌 No. 1004」というタイトルを付けた。1004という数字は、スペインだけで1003人の女性と関係したというドン・ファンを意識したものだ。マリー・Aが1004番目の女性というわけだ。
列車の中で書いたこの詩を後から読み返したブレヒトは、その<センチメンタルさ>に恥ずかしくなったに違いない。そこであえてドン・ファンを気取ったのだろう。ここには、上に引用した友人への手紙に見られるのと同じ尊大さが見られる。
だが、この題名とは裏腹に、詩自体は真面目なものだ。著者の本当の気持ちがにじみ出ている。
1924年になってこの詩を発表するとき、ブレヒトは「センチメンタルな歌 No. 1004」という題を「マリー・Aの思い出」に変えた。素直な題になった。
でもよく考えると、「センチンタルな歌」だけでもよかったはずだ。「マリー・Aの思い出」と、彼女の名前を一部なりともわざわざ残したのは、それだけ思いが強かったためだろう。
■おわりに
詩が書かれたのは、マリーアと別れてから3年後だ。まだブレヒトに胸の痛みは残っている。しかし、このような詩を書くことによって、傷は少しずつ癒えていくのだろう。
列車がベルリンに着いたとき、ブレヒトはマリーアのことはすっかり忘れて、この大都市で自分がしたいと思っていることにまっすぐに向かっていったことだろう。そこにはベルリン大学で学ぶヘッダ・クーンもいたのだから。
■参考文献
Bertolt Brecht: Werke, Band 14, Gedichte und Gedichtfragmente 1928-1939, Suhrkamp Verlag, 1993, S. 432
Jürgen Hillesheim: Augsburger Brecht-Lexikon: Personen – Institutionen – Schauplätze, WüKönigshausen & Neumann, 2000
Marcel Reich-Ranicki: Deutsche Gedichte und ihre Interpretationen, Bd. 8, von Bertolt Brecht bis Erich Kästner, Insel Verlag, 2002
森泉朋子編訳『ドイツ詩を読む愉しみ』鳥影社、2010
Wikipedia(ドイツ語版)の"Erinnerung an die Marie A."の項目、2022/01/25
https://de.wikipedia.org/wiki/Erinnerung_an_die_Marie_A.
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