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文学についてあれこれ書いていきます。

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    カフカの短い作品を翻訳し、解釈します。他にもカフカに関することなら何でも書いていきます。

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    日本の詩などの解釈を書いていきます。

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    多くの詩人が自身の死についての詩を書いています。どのように自分の死を思い描いているのでしょうか。

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    主にドイツの詩を訳したり、またよく知られた翻訳詩を紹介したりします。

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カフカの『新しい弁護士』―アレクサンドロス大王の軍馬だった弁護士?

カフカの短編『新しい弁護士』は、1917年2月10日ごろ執筆されたと推定されている 。カフカが33歳のときだ。 雑誌に掲載された後、1920年出版の短編集『田舎医者』に収められた。短編集の巻頭を飾っている。 短いもので、以下が全文だ。 ■カフカ『新しい弁護士』内容は、かつてアレクサンドロス大王の軍馬であったブケファロスが、現代においては人間の弁護士として法律書を読みふけっているという奇妙なものだ。 弁護士が馬だったという設定だけでも不可解なのに、よりによってアレクサン

    • 寺山修司によるサローヤンの引用――「あらゆる男は、命をもらった死である」

      寺山修司が死んだのは、1983年5月4日だ。その年の2月から5月まで、寺山は『週刊読売』に「ジャズが聴こえる」という題の連載エッセイを書いた。 「ジャズが聴こえる」シリーズの最後のエッセイは「墓場まで何マイル?」という題だ。これは寺山の葬儀が行われた5月9日に発売された『週刊読売』に掲載された。寺山の「絶筆」とされる。 このエッセイは、サローヤンの次のような引用で終わる。 う~む、カッコいい。昭和っぽさ、むんむんだ。 寺山によるこの引用のせいか、ネットのあちこちで、こ

      • 寺山修司の詩「懐かしのわが家」―ぼくは不完全な死体として生まれ

        寺山修司の詩「懐かしのわが家」を取り上げる。これは、1982年9月1日付の「朝日新聞」に掲載されたものだ。寺山が亡くなったのは翌1983年の5月4日だから、死の8か月前ということになる。 詩が発表された数日後、谷川俊太郎は佐々木幹郎に次のように語っている。 杉山正樹もこの詩を高く評価している。 もっとも、もっとも谷川も杉山もちょっと違ったニュアンスのコメントも残している。それについては以下の「さまざまなコメント」参照のこと。 ■語句昭和十年十二月十日――実際の寺山修司

        • 寺山修司の短歌「父親になれざりしかな」

          この歌は、1971年刊行の『寺山修司全歌集』には載っていない。この歌はその後にできたものだからだ。 ■語句なれざりしかな――「なれなかったなあ」。「ざり」は打消の助動詞「ず」の連用形。「なれざり」は「なれず」。「し」は過去の助動詞「き」の連体形。「かな」は終助詞で、連体形に付き、詠嘆(~だなあ)を表わす。「ならざりし」なら「ならなかった」だが、「なれざりし」は「なりたかったがなれなかった」という意味。 遠沖――「とおおき」と読むのだろう。「遠つ沖」という言葉があるが、「遠

        カフカの『新しい弁護士』―アレクサンドロス大王の軍馬だった弁護士?

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        記事

          ガルシア・ロルカの詩「別れ」――ぼくが死んでも

          ロルカの詩「Despedida(別れ)」は、小海永二訳が定番のようだ。ほかに長谷川四郎訳も知られている。 僕がこの詩を知ったのは寺山修司を通じてだ。(これについては「寺山修司によるロルカの詩『別れ』の翻訳」を参照)寺山訳で心を動かされたので、それに愛着がある。 でも寺山修司の訳には気になるところがある。それで思い切って自分で訳してみることにした。スペイン語はわからないが、最近は優秀な翻訳ソフトがある。英語やドイツ語や日本語に訳してみた。またネット上の英語訳も参照した。微妙

          ガルシア・ロルカの詩「別れ」――ぼくが死んでも

          寺山修司によるロルカの詩「別れ」の翻訳

          noteの記事「寺山修司の詩『ぼくが死んでも』―青い海が見えるように」で、寺山の詩「ぼくが死んでも」を取り上げた。そのさい、この詩がロルカの詩「別れ」から大きな影響を受けていると指摘した。 寺山自身がロルカの「別れ」を訳しているのだ。どこに訳詩が掲載されているのかをわかる範囲で調べてみた。 ■どこに翻訳があるのか◆エッセイ「黙示録のスペイン――ロルカ」:1974 寺山は、「黙示録のスペイン――ロルカ」というエッセイで、ロルカの詩の一部を引いている。このエッセイは、『私と

          寺山修司によるロルカの詩「別れ」の翻訳

          寺山修司の詩「ぼくが死んでも」―青い海が見えるように

          『寺山修司少女詩集』には詩しか載っていないが、もともとは「海へ来たれ」というエッセイに含まれる詩だ。「海へ来たれ」は、1970年出版の『ふしあわせという名の猫』(新書館)という本に収められている。小題「少女のための海洋学入門」の一篇だ。 寺山は、新書館が企画した「フォアレディース」と銘打った若い女性向けのシリーズのために、『ひとりぼっちのあなたに』(1965)を皮切りに、全部で8冊の本を刊行した。その第6冊目が『ふしあわせという名の猫』(1970)だ。 『ふしあわせという

          寺山修司の詩「ぼくが死んでも」―青い海が見えるように

          寺山修司の短歌「一本の骨をかくしに」

          歌だけ読むと、晩年に近い寺山の心情を表現した歌のように思える。しかし、これが載っているのは第一歌集『空には本』で、1958年に出版されている。寺山が22歳のときだ。 ■解釈「枯草」とあるので、季節は冬。道を歩いていると、前に骨をくわえた犬がいる。犬は枯草の中に分け入っていく。骨を隠しに行くんだ、と思う。どこに、どんなふうに骨を隠すんだろう? なんとなく、後をつけてみたくなる。 「われ」はどんな心情だったのか。特に目的もなく、ただ漠とした寂寥感を抱えて歩いていたのだろう。人

          寺山修司の短歌「一本の骨をかくしに」

          寺山修司の短歌「ノラならぬ女工の手にて」

          第一歌集『空には本』ではこの歌がだぶっている。小題「チエホフ祭」と「熱い茎」の両方に入っている。結句だけ表記が異なり、「チエホフ祭」の方は「巨いなる声」だが、「熱い茎」では「大いなる声」となっている。 後に寺山自身が編集した『寺山修司全歌集』では、「チエホフ祭」にある歌が削除されている。つまり、「大いなる声」の方が残されている。 寺山自身はあまり表記にこだわっていなかったようだ。どちらかというと、わかりやすい方に書き換えている場合が多い。 ここでは、「巨いなる声」を選ん

          寺山修司の短歌「ノラならぬ女工の手にて」

          寺山修司の短歌「ドンコザックの合唱は」

          第一作品集『われに五月を』や第一歌集『空には本』では、「ドンコサック」「振らむ」となっている。『寺山修司全歌集』を編んだときに「ドンコザック」「振らん」に修正したようだ。 ■語句ドンコザック――「ドン・コサック合唱団」のこと。「ドンコザック」は、現在は「ドン・コサック」と表記されることが多い。「ドン」はドン川のこと。「コサック」はウクライナや南ロシアで軍事的共同体を形成していた人々のこと。原義は「自由な人」。「ドン・コサック」は、ドン川下流域に住んでいたロシア・コサック。

          寺山修司の短歌「ドンコザックの合唱は」

          寺山修司の短歌「レントゲン写真に嘴を」

          『血と麦』の「血」の「第四楽章」に収められている。寺山修司の母親との関係を示唆する歌だ。 ■語句嘴――くちばし。 あけし――「あけた、あけている」 うつり――「うつる(写る)」の連用形。終止形で終わらずに、連用形で切ってしまう連用中止法が使われている。まだ言いたいことが続く印象を与える。 ■解釈自分の胸のレントゲン写真を見ると、そこに嘴を開けた鳥が逆さに映っているように見える。ああ、自分は母に愛されなかったから鳥が逆さになっているんだ、苦しんだから嘴を開けているんだ、

          寺山修司の短歌「レントゲン写真に嘴を」

          寺山修司の短歌「外套を着れば失う」

          『空には本』では「冬の斧」一連の歌の一首。 ■解釈冬。もう暗くなった時間。「われ」は外套を着て外出する。通り過ぎる近所の家からは、豆を煮る匂いがただよってくる。あたたかな家庭の明かりが見える。穏やかな庶民の生活だ。 しかし、外套を着て出かける自分はそのようなくつろぎをふり払って、これから世間に対峙していく。ちょうど戦に出かけるときの心情だ。外套は鎧なのだ。 「失うなにか」とは、安らかな日常の中で、強がる必要もなくさらけ出せる、自分の中の弱い部分だ。 家を出てから、外套

          寺山修司の短歌「外套を着れば失う」

          寺山修司の短歌「跳躍の選手高飛ぶ」

          『われに五月を』は、1957年1月1日出版。寺山修司は21歳、ネフローゼで入院中だった。この歌は、「真夏の死」という小題の中にある。 『空には本』は、1958年6月出版。寺山修司22歳で、退院する一か月前だった。この本では「熱い茎」という小題の中に収められている。 (細かいところが気になって、だらだらと長くなってしまった。手っ取り早く歌の解釈を知りたい人は、「解釈」の「歌の内容」を読んでください。) ■語句跳躍の選手――走り高跳びの選手。 炎天――夏の焼けつくような空

          寺山修司の短歌「跳躍の選手高飛ぶ」

          寺山修司の短歌「刑務所にあこがれし日は」

          『血と麦』の小題「砒素とブルース」の「参 Soul, Soul, Soul.」に収められている。 ■語句あこがれし日――「あこがれている日」。「し」は助動詞「き」の連体形。「き」は基本的には過去の助動詞であるが、完了としての使い方もある。その場合、動作・作用が完了し、その状態が存続しているという意味(~している、~してある)になる。 煮たる――「煮ている」。「煮たる」は、動詞「にる」の連用形「に」に、助動詞「たり」の連体形「たる」が付いたもの。助動詞「たり」はここでは、存

          寺山修司の短歌「刑務所にあこがれし日は」

          寺山修司の短歌「海のない帆掛船あり」

          『血と麦』では、「銅羅」と表記されているようだ。講談社学術文庫の『寺山修司全歌集』では「銅鑼」と修正されている。 ■語句銅鑼――出帆の合図のために打ち鳴らされる金属製の円盤。 ■解釈一瞬、「わが内に」は前と後ろのどちらに続くのか、と思ってしまう。つまり、「海のない帆掛船ありわが内に」で切れるのか、それとも「わが内にわれの不在の銅鑼鳴りつづく」と「わが内に」は下の句に続いていくのか。 おそらく意味的には「わが内に」は両方にまたがっているのだろう。でも僕が読むときには、「海

          寺山修司の短歌「海のない帆掛船あり」

          寺山修司の短歌「日あたりて雀の巣藁」

          この歌は『われに五月を』から引いたものだ。『空には本』や『寺山修司全歌集』では、「雀」の部分が「雲雀」になっている。 雀はスズメ目ハタオリドリ科、雲雀はスズメ目ヒバリ科で、同じ目の鳥だ。漢字も「雀」と「雲雀」と似ており、音も三音、どちらでもよさそうだ。寺山自身が最終的に「雲雀」としているのだから、本来はそちらを採るべきだろう。でも僕は「雀」の方が気に入っている。理由は末尾の「テクストの異同」のところで述べる。 ■語句巣藁――巣を作りあげている藁のこと。 こぼれおり――「

          寺山修司の短歌「日あたりて雀の巣藁」