【ブルアカ音声】絆ダイアローグ Vol.1 「シロコ」の何がそんなに人を狂わせるのか――内容ネタバレ抜き・いち音声作品・ブルアカオタクとして


はじめに

 絆ダイアローグ Vol.1 「シロコ」を体験しましたか? 「あゆみ」――すばらしかったですよね。

 ……配信サービスで聴いたので 「03 Dialogue Vol.1「前略、終わらない鼓動と」」を聴いていない? 絶対に体験してください。買え。今からその話をします。内容のネタバレ極力抜きで。

 音声作品オタクとして語ると述べていますが、ブルーアーカイブのオタクとしても砂狼シロコが大好きな先生としても語ります。

 任せてください、どの沼にも頭まで沈んでいるので何がそんなに僕にとってよかったのか叫び散らかしますから。オタクに買わせるのはオタクの狂っている様をみせるのが一番ですからね(諸説あります)。

 この「03 Dialogue Vol.1「前略、終わらない鼓動と」」だけに金を出す意義があるのか――? あります。意義しかないです。ちゃんとしっかり話すので、ついてきてください。

 音声作品、あるいはブルーアーカイブ、あるいは砂狼シロコが好きな先生。あなたのためを思って言っているんです。僕は普段から軽率に「買え」と言いますが、それは割と軽率な気持ちで言っています。

 今回の「買え」は切実です。音声作品、あるいはブルーアーカイブ、あるいは砂狼シロコが好きなのにこの「03 Dialogue Vol.1「前略、終わらない鼓動と」」を体験しない、そんな先生がひとりでもいるならそれは悲劇です僕にはこれを体験した人間としてそんな先生をひとりでも減らす義務があります。ほとんど正義感に近い切実さをもってこの作品をダイレクトマーケティングします。お願いします、どうか話をきいてください。

 買え。金がないなら昼飯も夕飯も抜いて確保しろ。この予算捻出策は渇水と空腹で倒れた対策委員会編1章の気持ちになれるからアドまである。むしろアドしかない。5000円未満だからユウカの決裁も要らない。ふわりんに2万円使える先生方なら問題ないはずです、突っ込め。では、はじめます。


限界づけられた音声作品

さまざまな音声作品たち

 僕は音声沼に15年以上沈んでいます。2006年~2007年頃が契機だったはずです。DLsiteで同人音声が猛威を振るう前の時代、催眠音声に傾倒していました。なにとは言いませんが05とか好みでした。

 コハルが騒ぎ出すかもしれませんし、実際そういう作品もありましたがそれだけと言うと語弊があります。現代にも残っている流れですが、ただ催眠による心身の深い癒やし、催眠にかかることそれ自体を訓練するため、そういった性的なものとはまた違う催眠音声への興味というものが確かにありましたし、あの当時ほど熱狂的ではありませんが現代にもその血は受け継がれています。

 現代で有名なものの一つはASMRでしょう。僕も山ほど聴いています。ブルーアーカイブでも作品が出ていますね。耳かきを代表に洗髪、散髪、マッサージ、焚火や炭酸の音――など様々な音的体験が僕達に鮮やか視聴体験をもたらしてくれます。

 特にこだわった作品では、ふすまが開くその瞬間、その音との距離で部屋の間取りを感じられ、ふすまがスムーズに開かずガコッと引っかかる音で建物の立て付けの悪さ、つまり歴史を感じられる――など「音」ひとつで「世界」を現前させるほどの洗練がなされています。ただひとつの音が旅館の畳の匂いまで鮮やかに作り出すのです。

 今度こそコハルが叫び出しますが、音声作品といってR-15やR-18を除くことはできないでしょう。深くは述べません。現代では時にASMRと手を取り合いながら、とても鮮やかな体験として性的な場を与えるものです。

 僕は音声作品のオタクではありますが、以上のようにその歩みは「同人的」なもののごく一部です。

 ほかにもたとえば公式による「ボイスドラマ」のような類は古から多々あり、そこで生まれた迷言がその作品のオタクたちによって語り草になる……なんてことは当時ではよくあることでしたね。

 かなりマイナーですが「音"楽"作品」としての「音"声"作品」をやるという実験的な作品もメジャーではありませんが存在し、熱狂的なファンが存在します。「音声作品で物語をやる」という強固な意識を持つ作品もまた存在し、音声でありながら「シナリオがいい」と熱狂的にファンの交流がなされている作品・シリーズは枚挙に暇がありません。

限界づけられた音声作品

 上に挙げた音声作品には束縛があります。これはかなり当たり前の話です。

 催眠音声ならば催眠をしなければならない。
 ASMRならASMRを提供しなければならない。
 R-18ならば曲芸でなければ濡れ場が要る。
 物語をやるなら物語が要る。

 音声作品はこれらのジャンルに縛られます。それの何が悪いのか。自由度が落ちるのです。

 ブルーアーカイブのASMRを思い浮かべてください。それは確かに先生と生徒の話です。しかし、ASMRを掲げる以上ASMRがなくてはなりません。それはそのジャンルを掲げるがゆえの絶対の要請です。AMSRを謳っていながらそれがないのは看板詐欺です。ですから、どのように作ろうとASMRがなくてはなりません。

 耳かきをしたり、洗髪をしたり、洗顔をしたり、ささやいたり、そういったことをしなければならないのです。

 これはエロゲのジレンマでもあります(エロゲのオタクはすぐエロゲの話をする)。エロゲである以上エロが要ります。必ず要ります。

 もちろん、この要請にうまく応えられず流れをぶった切るようにしてエロやASMRをノルマ的に導入するものもあれば、自然に導入するもの、あるいはこれが導入される必然性があったものとして描き出す巧みなものもあります。しかし、いずれにせよどう導入するかにかかわらず、それは導入されねばなりません

 この「しなければならない」にはたくさんの人が苦しみました。たとえばASMRにおいてR-18――特に実用がメジャーであったとき、ほとんど価格の破壊者といえるような安価で圧倒的な質の全年齢同人音声をコンスタントに提供し続け、「そうしなければならないわけではない」ジャンルの勃興に尽力したサークルがあります。

 音声から目をそらせば、古のモンスター娘界隈では「イートミー・ロールミー」に代表されるような被虐的な向きが主流でした。それに「純愛」を掲げ「そうしなければならないわけではない」という先駆が存在し一つの派閥を切り拓き(詳しいひとは、おそらく少なくともぱっとふたつほど思い浮かぶでしょう)、反対に逆転などの不徹底から「ノー逆転。自分はそうめん屋であってラーメンは出さない」を宣言し伝説を築きそれに続く潮流を生み出した人々もあります。

 「ジャンルを上手く扱えているかどうか」に関わらず「ジャンルによる拘束」そのものへの反抗というものは、このように音声作品に限らず普遍的に見られるものです。

 そして、僕自身常々思っていました。

 世界の終わりに儚い少女と二人旅をするとき、僕はただ二人旅をしたかった。耳を舐められたいわけでも、性行為に至りたかったわけでもない。ただ、二人で終わった世界を巡り廻り、廃墟前でセンチメンタルな気持ちになったり、オーロラを見上げて二人で感動したり、偶然見つけた保存食で大喜びしたりしたかった。物語さえ、邪魔でした。シナリオ上の要請すらないただ切り取られた旅の日常、それだけを見たかった。

 しかし、それはメジャーではありません。音声沼は深く広いのでそういう作品もあるのですが、需要としてはマイナー側です。

 物語さえ要らないと言うと難しく聞こえるかもしれません。文学で言うなら、芥川と谷崎の論争を思い出すべきでしょう。

 ここで僕が想定している物語とは谷崎が述べているような構造的美観、筋の面白さであり、僕はそれにすら過剰に拘束されてほしくないと思っています。

 たとえば、大学の友達が夜中にどうでもいいダルい電話をかけてきて切る。そんなただ日常を切り取っただけのような音声。そういうものが、ほしい。

 これが僕の飢餓的欲求でした。音声沼に浸っていながら、僕が一番求めているのはそういった類の作品です。ただ純粋にその時間を切り取るだけ。そういったものを、ずっと求めていました。


Dialogue

 2024年4月20日の生放送、青春あんさんぶる禁断の二度打ちの後、突然あらわれた新規軸が「絆ダイアローグ」でした(どこにそんな連打するコストがあったんだ? カツカツではないのか? もうコスト0では? ペレツ・ウザで制約解除したのか? ウイや正月フウカで音声供給コストを半減したのか? 全知で加速したのか? セトを……潰す!)。

 基本的に「ソロのキャラソン」としてマーケティングされた本作ですが、発表された瞬間、僕はそのシリーズ名で狼狽えていました。「ダイアローグ」です。

 ダイアローグ、つまりDialogueの意味は「対話」です。僕はこのことに激しく動揺していました。先述の音声やその他ジャンルのジレンマを想起いただければ、僕の動揺が少しでも伝わると思います。

 本当にダイアローグであることのみが制約であるなら、そこに存在する最低限の制約は「対話が成立すること」のみです。二人いて、話していればそれでいいのです

 耳かきをする必要はありませんし、えっちになる必要もありませんし、何か壮大なシナリオをやる必要もありません。シチュエーションボイス、シチュボのようにシチュを指定する必要もありません。私たちの関係は指定するまでもなく自明ですし、やっていることは普通のことだからです。シチュにすらこだわらず、ただ話す。ただ、話せばいい。それだけです。

 そんな虫が良い話があるのか? 音声沼という広すぎる沼のなかで、干ばつしている小さなアビドス砂漠のような場所に突然豪雨が降り注ぐようなことがあるのか? 大衆に売り出さねばならないのに?

 震えながら、僕は聴きました。そして、全てがそこにありました。

 ネタバレはしません。ただ、「03 Dialogue Vol.1「前略、終わらない鼓動と」」は正しく対話ダイアローグでした。あまりにも、どこまでも対話でした。何のノルマもなく、何の縛りもなく、ただシロコとの対話がありました。

 何の縛りもありませんが、そこには確かに砂狼シロコといっしょに歩んできた日々がありました。対策委員会編1章~2章での戦い。シロコとの3つの絆ストーリー。対策委員会のグループストーリー。正月やリゾートでのドンパチ。エデン条約編での援軍。最終編での、シロコをとりまくすべてのそれ。何にも縛られていないにもかかわらず、私とシロコはそれら全てを歩んできたふたりです。わざわざ思い出語りをくどくど行うようなことはありません。ただ、当たり前のようにシロコと私はそれらを経てきた二人だというだけです。そんな二人がどこまでも普通の話しかしません。

 そして。ブルーアーカイブのゲーム内で衣装違いを実装するならば、その絆ストーリーは衣装と衣装を着るようになった状況、つまりそのちょっと彩りをかえた日常に拘束されます。「衣装違い」ルールに縛られるのです。上手く描けているかどうかに関わらず、制約を受けます。このジレンマそのものがもどかしいということは先述のとおりです。このダイアローグには、その縛りさえありません。私とシロコはただ、ごく普通の日常として出会うのです。

 いわば、今までの全てを経てきた素シロコと普通に会って普通に話すことになります。素生徒の絆ストーリーは愛用品で追加できます。しかし、それは愛用品に縛られます。ですが、ダイアローグではその縛りさえありません。対話すればいい。縛りはただ、それだけです。そして実際に、何の縛りもなくただ普通に先生とシロコは話をします。色んなことを経験してきたシロコと、ふたりでただ普通に話します。

 繰り返しになりますが、それは思い出語りではありません。内容はネタバレになりますから話しませんが、先生と生徒が会って、普通に話すだけです。その普通に話しているシロコが色んなことを経験してきたシロコだというだけです。やっていることはただの対話、ダイアローグです。看板に偽りも詐欺も不意打ちもありません。直球です。

 これは、音声作品として僕が求めていただけでなく「ブルーアーカイブ」というコンテンツとしてあまりにも純粋です。

 ほかでもない砂狼シロコを押し出して明示されたブルーアーカイブのキャッチコピーのひとつは、これです。

 ただ先生と生徒が話すだけ。耳かきもなければ濡れ場もなく、複雑なシナリオ上のギミックもありません。それはただの一日。それはただの日常です。

 けれど、それを全肯定するのがブルーアーカイブという作品です。

 何気ない日常で、ほんの少しの奇跡を見つける物語。

 それを証明するためには、なんでもない日常をただぶつけ、それが奇跡なのだとただしあわせに実感することが一番です。一切の加筆なく不純なく、ただ当たり前の日常。それこそが、ブルーアーカイブがブルーアーカイブであることを証明します。ブルーアーカイブの核はエデン条約編や最終編の深刻さとそのカウンターとしての「奇跡」でしょうか。奇跡とはそのように凄くて珍しいもののことでしょうか。ほかでもない、対策委員会編において梔子ユメがその問いに反駁しています。

 新シリーズ「絆ダイアローグ」――そこに今後もおまけとして加えられるであろう「03 Dialogue」。それこそが、「ただ一緒にいられることが奇跡みたいなもの」だということを、何の特別さもない一日をもってして証明します。

 音声作品として、このダイアローグは私にとって奇跡でした。
 ブルーアーカイブとして、このダイアローグは奇跡を証明しました。
 なんでもない一日のごく普通の砂狼シロコと会わせてくれました。

 ギミックだけの問題ではないのです。ジャンルだけの問題ではないのです。実際に描かれたその一日が、あまりにもうつくしかったのです。ただの、なんでもないシロコとの一日だったのに。なんでもないなんてことはなかったのです。それは奇跡だったのです。私たちは、素晴らしい一日を過ごしました。なんでもなかったけれど、ネタバレに配慮するようなことすらなかったけれど、僕は、しあわせでした。

 もし、あなたが音声作品を好んでいるならば「03 Dialogue」を絶対に体験すべきです。もし、あなたがブルーアーカイブを愛しているなら「03 Dialogue」を絶対に体験すべきです。もし、あなたが先生であり砂狼シロコを大切に思っており、小鳥遊ホシノの手紙を覚えているなら、砂狼シロコの歩みと戦いを覚えているなら、「03 Dialogue」で今の砂狼シロコに、ただ会ってあげてください。今の彼女を、見てあげてください。何も特別なことをする必要はありません。ただ彼女と話してください。ダイアローグ、必要なのはそれだけです。

 「あゆみ」は素晴らしいものでした。間違いなく必聴に値します。ですが、どうかそれで終わらないでください。「03 Dialogue」を、砂狼シロコに会いに行ってください。彼女と話してください。一日を、過ごしてください。

 その何気ない日常で、きっとあなたは小さな奇跡をみつけるはずです。

 私は軽率に買えと言ってしまう人間です。その言葉はあまりに軽く、私の買えは狼少年の言葉のようです。けれど、それでも切実に言いたいのです。

 たいしたことはないけれど、それでもちょっと使ってしまう額。黒服ならば、どうかしまっておいてくださいと言うでしょう。先生にも先生の生活があるのですから。

 でも、そのお金でシャーレを出て、シロコに会いに行ってほしいのです。ただ何でもない一日を過ごすだけです。生徒と普通に話すのに、大きく構えて大金を用意する必要なんてありません。ほんの少し握りしめて、ちょっと移動費を出すだけです。

 今日は、シロコに会いに行こう。

 そんな気持ちで、少し心を躍らせながら、シロコに会いに行ってみてください。

 そんな気持ちで、少し心を躍らせたシロコが、先生あなたを待っています。

 これは、ふたりの対話ダイアローグです。ちょっとアビドスまで足を伸ばして、どうか二人だけの時間をお過ごしください。

 特別なものは、何もありません。けれど、全てが特別だったときっとそう思えるはずです。

 なぜなら、あなたにとってきっと砂狼シロコという生徒はとても特別な、大切な生徒であるはずだからです。シロコと過ごす、ただそれだけのことが、きっとすべて特別だからです。

  「03 Dialogue Vol.1「前略、終わらない鼓動と」」

 あなたとシロコの間に「拝啓」なんて堅苦しい書き出しはもう必要ありません。ただ「前略」としたためてラフに、当たり前に、なんでもないことのように、二人は一日を過ごすのです。不一? いりません。結ばないからです。それは「終わらない」のですから。まだまだ続けていくのですから。

 だからこそ。そこに、日常奇跡はありました。

 もう一度だけ、手を伸ばします。シャーレから少しだけお出かけをする、そのための少しのお金を持って、シロコに会いに行きましょう。たぶん、あなたはちょっと浮かれているでしょう。安心してください、シロコもきっとそうです。あなたもそれをわかっているはずです。なぜなら、あなたはシロコを知っているからです。シロコもきっと、あなたのことを知っています。たくさんの日々を、二人は過ごしてきたのですから。

 だから、何も気負わずに。

 シロコに会いに行ってあげてください。

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