ガールズクリエイションのシナリオが良すぎるという話について

2023年12月29日現在のかなり強めのネタバレ情報を大量に含みます。含みますが、ダイレクトマーケティングでもあります。頼むからガークリをやってくださいお願いします!

筆者は哲学徒であり、美術史について決して強くないことに注意して読み進めていただければ幸いです。あちこちに誤謬があり得ます。

 【ガールズクリエイション -少女藝術綺譚-】はDMM GAMESで配信中のクリエイティブチームくまさん第4段のブラウザゲームです。

 多くの人が「何それ?」と思うゲームでしょう。あるいはYoutubeの広告などでちらりとご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。

 ガールズクリエイションは所謂「擬人化・コレクション」もののブラウザゲームです。「またか!」と思った方、「また」です。レッドオーシャン中のレッドオーシャンです。もうこのジャンルだけで食傷気味という方も多くいらっしゃるかと思います。ですが、びっくりするほどシナリオの質がよいのでどうかおすすめさせてください。



最低限の事前情報

 ガールズクリエイションのストーリーを語るにおいて、必要な情報を簡単に開示します。この大項目「最低限の事前情報」に特異な点は殆どありません他の多くの擬人化モノと差別化できている点はあまりないと言えるでしょう。次の大項目で更に深掘りしていきますので、まずは簡単な基礎知識として眺めていただければ幸いです。この大項目でガークリの魅力を知ることはできません。次項目からそれを語っていくことになります。

舞台について

 上掲した動画冒頭のとおり、20世紀以前頃のヨーロッパの大都市を思わせる(ガス灯が存在するため技術的には近代? 後述のデュシャンの存在のため1890年代から先ではない印象です)藝術都市アテネスです。その名の通りおそらく都市名のモチーフは古代ギリシアの都市国家アテナイです。

 先に時代はおおよそ1890年代以前、技術的にはガス灯が存在するレベルと述べましたが、藝術都市アテネスの街並は時代も地域もちゃんぽんになっており、都市の中の「一地区」としてその特徴が強くあらわれています。たとえばアテネスの中心であるプランタン地区に在する、主人公が属する「夢幻美術館」の概観などは露骨です。誰もがそのモチーフのひとつを瞬時に悟ることでしょう。

夢幻美術館

 あるいは藝術家の一人セキエン(「絵図百鬼夜行」で有名な鳥山石燕でしょう)と縁の深いエグゾティ地区はアテネスという都市から見ても「異国情緒」溢れる地区で、たとえば近世日本色などがとても強いです。必然、ゴッホなどもこのエグゾティ地区に強い関心を抱いています。

 近世と呼ぶには進みすぎている、けれど近代と呼ぶには近世色の強い舞台が藝術都市アテネスとなっています。

 これにはおそらく理由があって近代、1890年代~1900年代以降のレベルになってしまうと現代美術の先駆けたるマルセル・デュシャン等が登場してしまうからだと思います。先の動画のとおり藝術都市アテネスは懐古的な色合いが強く、この色合いにデュシャンらの登場はあまりにも致命的な一撃を与えてしまうことになります。

 デュシャン以前以後、現代美術への強い拒否感とそれに対決し藝術性そのものに力強く一歩を踏み出そうとする藝術家たちを意識した、それをこそテーマの一つに据えた作品には先駆的な傑作が既に存在します。

 きゃべつそふとの「アメイジング・グレイス -What color is your attribute?-」です。

 ではガールズクリエイションは藝術観についてどう扱っているか。単に現代以前に逃避してノスタルジーに浸っているのか? デュシャンが「泉」――つまり私たちには名の書かれた便器にしか見えないもので挑戦したように、藝術という概念そのものへの問いかけからガールズクリエイションは逃避しているのか? 違います。デュシャンらの登場は現代の我々からすれば大事件でしたが、それ以前にも藝術を問うイベントは複数あり、デュシャン以前に存在したある時代の転換期を2023年12月29日現在のガールズクリエイションは取り扱っています。

 藝術とはなにか、なにが藝術と呼ばれるに値するのか。藝術の価値の根本的基礎付けは可能か。このような問いからガールズクリエイションは逃げていません。

 しかし、そのことについては後に触れていくことになるでしょう。本項目はあくまで「舞台」に関するものです。雑に言えば藝術における「現代」が来てしまう前、それがガールズクリエイションの世界です。

主人公について

 このガールズクリエイションにおけるプレイヤーの分身となる存在は藝術都市アテネス唯一の美術館である「夢幻美術館」の新任館長です。「擬人化・キャラ収拾モノ」として物珍しいものではなんらありません。彼は歴代館長に伝わるある"秘術"を用いることができますが、これについては後述します。自ら藝術作品を生み出す藝術家ではありませんが、その審美眼は確かなもので極めて精巧なものについても真贋を容易に見抜くことができます。ただし、これは館長の特殊能力ではなくヒロインたちも当然に持っている力で、むしろ藝術都市アテネスに住んでいながら真贋すら見抜くことのできない人間はその権威が揺るぎかねません。

館長だけでなく藝術家たちも当然のように精巧な贋作に騙されることはありません
他の都市ならまだしもアテネスにおいて「節穴」であることは
貴族としての格の評価に係りかねず、かなり強い罵倒です。

ナビゲーターについて

 ナビゲーターは夢幻美術館の学芸員、正式な職位は所蔵品管理官のサンソヴィーノという少女です。140cmという矮躯でティーンエイジャーにしか見えないのですが飲酒可能年齢です。

至高の美術品を鑑賞しながら魚介のフリットと共に白ワイン、最高でしょう。

 サンソヴィーノには個別エピソードも用意されているのですが、現在のところ深く物語には関わってきておらず、館長同様非藝術家でありながら藝術に精通した専門家たる学芸員である彼女のこれからが楽しみな少女です。

 とはいえ、ここまでだとやはりガールズクリエイションの突出した魅力は見えてこないものと思います。もう少しだけ、予備知識に付き合っていただければ幸いです。

藝術家について

 現在「夢幻美術館」所属の藝術家は以上のとおりです。初期レアリティである星3は全員所有済の状態でおそらく物語が開始されます。ミケランジェロ、ラファエロと並んでルネサンスの三大巨匠に並べられるダヴィンチについては夢幻美術館とは別の組織「新藝術騎士団」に所属しているため、現在は未実装です。

 藝術家はこの世界において「魔法」とでも呼称すべき力を有しており、その戦闘能力は一般人と隔絶しています。

 この藝術家一人一人が凄まじく魅力的なのですが、まずは総論・紹介としてここでは簡単に眺めるだけとします。画像左上の「アルテ」という少女については記憶喪失であり天才を自称していますが、正体不明です。あいつだろう、という予測の候補は幾つかあるようなのですが決定的な通説には至っていない感じです。

 筆者の好みはアカデミズム派の大権威ブグロー御大なのですが、先日公開されたメインストーリー4章においてロダンにブチ抜かれたため心が揺れています。

 彼女たちが「どれほど魅力的なのか」はこれから順を追って示されていくことになると思いますので読み進めていただければ幸いです。

イマージュについて

 藝術家の作品に魂が宿り、作品をモチーフとした少女等の姿をとった存在をイマージュと呼びます。イマージュは2通りの方法で発現します。一つは優れた藝術家の作品から自然発生するものです。

 もう一つは館長の"秘術"により人為的に抽出する方法で、どちらの方法で現出したイマージュも等価同等の存在のようで格差はありません。

 イマージュは藝術家の藝術作品をルーツに持つため、藝術家とは親子のような、姉妹のような、不思議な連帯感を持ちます。たとえば「星月夜」がルーツであるイマージュのネイトはいつも献身的に精神の不安定なゴッホを支えています。

 藝術家とイマージュの関係は一言で済ませられるものではなく、家族的なものが多いとはいえセキエンとシズク(「河童」のイマージュ)のように、「探偵」と「助手」といった関係のものも存在します。

 イマージュは藝術家同様「魔法」を行使することができ、その力は隔絶しています。

 以上、「館長」「学芸員サンソヴィーノ」「美術館所属の藝術家」「そのイマージュたち」がプレイヤーの所属「夢幻美術館」の主勢力となります。


敵対勢力について

 本作がバトル要素を持つゲームである以上、「」が存在します。それは「死の藝術家」です。彼らは「死の藝術」と呼ばれるイマージュとはまた別の藝術作品を生み出します。「死の藝術」は人々を害するものが多く、また「死の藝術家」の生み出す「死の藝術」の製作過程そのものが犯罪的であり得ます。これら「死の藝術家」と「死の藝術」に纏わる犯罪を「藝術犯罪」と呼称し、夢幻美術館はこの「藝術犯罪」の撲滅に積極的です。この「死の藝術」に纏わる問題も後に魅力を深掘りしますが、まずは簡単な概説としてここで次項に移ります。


藝術都市アテネスのひとびとについて

 夢幻美術館所属の藝術家やイマージュ等、そして死の藝術家たち犯罪者の他にもアテネスには様々な人々が住んでいます。アテネスが都市である以上「アテネス市議会」が存在しますし、法執行機関として「アテネス市警」が存在します。また、夢幻美術館と対立する理念のもとダヴィンチが団長を務める「新藝術騎士団」も街の治安維持に貢献しています。

 藝術都市アテネスは一般市民に至るまで日常的に深く藝術に触れており、基本的にその性情は極めて文化的かつ温厚です。「基本的には」藝術都市アテネスの民度は「異常と呼んでよいほど良い」と言って差し支えないでしょう。

 ――おつかれさまでした。ここまでが基本的な藝術都市アテネスについての概説です。それではいよいよその魅力的な点に踏み入っていきましょう。


組織連携について

 以上の概説から疑問を覚えた人も多いでしょう。正式な法執行機関として「アテネス市警」が存在するのになぜ「夢幻美術館」が「藝術犯罪」に対処しているのかと。

 実際、「夢幻美術館」の本来担うべき役割は「藝術犯罪」の撲滅ではありません。「夢幻美術館」には「アテネス唯一の美術館」として収蔵品を管理公開するという藝術都市として極めて重要な機能があります。加えて物語開始当初、美術館は閑古鳥が鳴く状態で本来「藝術犯罪」などという役割と無関係な出来事に首を突っ込んでいる余裕など全くありません。「夢幻美術館」の急務は美術館機能の立て直しです。作中の辞書でもはっきりと「自警団としての役割も持つ」と記されており、夢幻美術館はあくまで自警組織に過ぎません。

 ではなぜ「夢幻美術館」が「藝術犯罪」と戦っているのか。それは「死の芸術家」や「死の藝術」の力に「アテネス市警」が及んでいないためです。「アテネス市警」もアテネス市内の自警を目的として結成された自警団がその起源であり、性質上一般人が多く藝術家はおろか軍務経験者すら欠いている状態です。単純な戦闘力として「アテネス市警」には「藝術犯罪」に完全に対処できるほどの力がないのです。

 このことから「夢幻美術館」は「アテネス市警」から花形とでも言うべき役割を奪ってしまっていることになります。ではこの二つの組織は対立しているのでしょうか。それは違います。むしろ逆です

 このことは、館長とその親友たるジャン刑事のやりとりからも簡単に窺い知ることができます。

 ジャン刑事はアテネス市警の力が全く足りていないことに自覚的で、そのことに強いふがいなさを覚えています。一方で、館長は「気負うなよ」とジャンを励まします。

 館長にとってみればジャン刑事は同じ志を抱く仲間なのです。けれど、ジャン刑事はその矜持を持ってしっかりと超えてはならない一線を引き続けています。

 アテネスを犯罪から守るのはあくまで警察の仕事であり、美術館は本来美術品の管理や展示がその仕事です。市警の力が足りていないからといって美術館の力を借りることを当然と思うようになったら人として終わりだとまで断言します。

 ジャン刑事ははっきりと「夢幻美術館本来の役割の重要性」に言及しています。自分自身、美術館で藝術に触れられることの喜びを感じながら。

 だからこそ、本来「美術館は共闘する仲間」であってはならないのです。むしろ、ジャンにとって正しい美術館と警察の関係は以下です。

 しかし、その理想を掲げて、甘えることを当然としないと断言しながら、ジャンは現実も直視しています。事実として、アテネス市警には「力」がありません。だからこそ、ジャンは絶対にこの思いを忘れないと胸に刻みながら笑顔で夢幻美術館と共闘するのです。

 そんなジャンだからこそ館長は彼を親友として遇し、またアテネス市警の多くがジャンを慕っています。このようにして強い絆で「夢幻美術館」と「アテネス市警」は結びついているわけです。

 また「アテネス市警」は「暴力」に対し力不足ですが、決して警察として完全に無力なわけではありません。

 「夢幻美術館」の自警はあくまで副次的な業務であり、警察はそれが本業です。ゆえに情報の多くが警察に集中します。だからこそ「夢幻美術館」は事件を認識するとまず必ず「アテネス市警」と連携します。メインストーリーの1章から4章に至るまで、その姿勢は一貫して決してブレません。

 そして、この協力関係は「夢幻美術館」と「アテネス市警」だけのものではありません。「アテネス市議会」もまた「夢幻美術館」と協調しており、有事の際には速やかに連携します。

 そもそも「夢幻美術館」には「アテネス市議会」議員を務めるアングルが在籍しており、その点においても美術館と市議会は常に連携して事にあたっています。

画像は外賓の接待用衣装でひどいことになっていますが

 アテネスにおける善意の組織で「夢幻美術館」と明確に対立しているのは「新藝術騎士団」です。「新藝術騎士団」は"藝術品はその価値がわからない一般市民から遠ざけ、真の価値がわかる者たちだけで賞美すべき"だという思想の元行動しており、明確に美術館の理念と対立しています(先のジャン刑事の発言を想起していただければ決定的な対立が分かるかと思います)。しかし、アテネス自警にかける思いはとても強く、決死の思いで戦っています。

 そのため「夢幻美術館」より先に現場に駆けつけ、結果として足止めにしかならなかったとしてもアテネス市民は「新藝術騎士団」に対しても敬意を払っており、館長らもまたその姿勢や統率については騎士団を高く評価しているところです。

 このように、内ゲバが頻発しがちなソシャゲ・ブラウザゲーの世界において「アテネスの治安を維持しようとする人々」は強い連帯感で結ばれており、シナリオ上も互いの利点を生かし合いながら「藝術犯罪」と戦っています。「新藝術騎士団」とすら「自警団」としての縄張り争い、理念対立で反目しあいながらも有事の際には共闘します。そして彼らが人々のために戦っていることをアテネス一般市民は皆よく知っています。このように、通常のソシャゲ・ブラウザゲーと比して「藝術都市アテネス」は一般の人々や治安を守ろうとする人々の良識が私のプレイしてきたゲームの中では飛び抜けて高いです。

 あくまで「自警団」に過ぎない「夢幻美術館」が有事の際速やかに各機関と連絡をとり緊密に連携しながら事にあたる姿は良識的であり、また極めて合理的でもあり、そのシナリオの運びは見ていて非常に気持ちのよいものがあります。私がガールズクリエイションのストーリーを好む理由の一つがそこにあります。


死の藝術について

 「死の藝術家」と「死の藝術」――「藝術犯罪」により多々「夢幻美術館」と対立するものたちです。彼らの敵としての特殊性は、彼らは「藝術家」であり彼らの作ったものは「藝術品」であるという点にあります。「死の」と頭に冠してはいるものの、彼らは「藝術家」であり「藝術」なのです。

 「死の藝術家」の作り出す「死の藝術」は「藝術」であるが故に審美眼を持つ者が多い「藝術都市アテネス」において、それに魅了される者が後を絶ちません。

 「藝術犯罪」と日々戦う「夢幻美術館」所属の藝術家にすら「死の藝術」に強く心を惹かれ、「死の藝術」のレプリカを展示しよう、「死の藝術がほしい」などと平気で発言するレンブラントがいるくらいです。「死の藝術」は有害ですが「藝術」であることに間違いはないのです。

 たとえば一人の「死の藝術家」が殺人による血肉と臓物で「死の藝術」を作り上げたとします。「普通に考えれば」責めるべきは殺人です。しかし、「死の藝術」は「藝術」であるためレンブラントの怒りは明後日の方向に突っ走ります。

 彼女は呈示された「藝術」に対して「藝術家の技量がなっていない、単に乱雑であり混沌に振り切れておらず思い切りがない」やら

 そもそも「血を絵の具代わりにするという発想自体ありきたり」とその発想の貧困さを痛罵し、それを補うだけの工夫もセンスもないと再び技量を罵倒し、単に過去の「死の藝術」を模写した方がまだマシとそのオリジナリティを足蹴にします。

 その上で呈示された「死の藝術」があまりにも芸術的価値に欠け、呆れきってしまい――そこでようやく「使われた人が浮かばれません」と結ぶのです。まず「藝術鑑賞」ありきなのです。偉大なるレンブラントにここまで言われたら普通に心が折れそうです。暴言連射です。

 挙げ句の果てに奥の手として別人から貰い受けた「死の藝術」を披露した際にはこのざまなので、「死の藝術」だから「藝術的価値がない」ということにはならないのです。

 上の章では2流の小悪党が相手のため展開はコミカルであり、レンブラントが同行していたこともあって「死の藝術」の「藝術的側面」に光があたります。

 しかし、「死の藝術」は「藝術」であるとしてもそこに人の死があるのです。その様は、目を覆いたくなるほどグロテスクです。

 花を用いた藝術のために眼窩に花を生けたいけれど、そのためには眼球が邪魔です。「死の藝術家」の判断に迷いはありません。

 「夢幻美術館」「アテネス市警」「新藝術騎士団」――様々な組織が撲滅のために動いているように「藝術犯罪」は「藝術」ですが同時に「犯罪」なのです。ガールズクリエイションのシナリオはその両面を照らします。レンブラントのように「死の藝術」を「藝術」として欲しコレクション化を進める人間たちがいる一方で、そこには凄惨な人の死があります。「藝術」の製作過程そのものが一つの「犯罪」であるとともに生み出された「死の藝術」が更に被害を撒き散らします。

 この物語の舞台は「藝術」都市アテネスです。「死の藝術」が「藝術」である以上どうしても「その藝術的価値がわかってしまう」人間が一定数います。アテネスは藝術的啓蒙が非常に進んでいるため、逆説的に「死の藝術」を欲する人もまた生じやすいのです。

 アテネスが「藝術都市」である以上、「収集家」が「死の藝術」を求めてしまう構造がどうしても出来てしまいます。ノワール地区のような裏の世界は勿論、表の貴族達も裏取引をしてでも「死の藝術」を求めます。なにせそれは自らの審美眼にかなう素晴らしい「藝術作品」なのですから。

 こうしてアテネスには「収集家」による「死の藝術」の「需要」が存在します。そしてもう一つ、アテネスが藝術都市である以上最悪かつ不可避の性質がアテネスには存在します

 「死の藝術家」は「藝術家」です。自らの藝術的センス、才能に気がついた場合「藝術家」にとって最善の選択肢は何でしょうか。画材が豊富で、見る目がある人が多く、パトロンを得られる可能性があり、自らに多くの知見を与えてくれる藝術に満ちあふれた場所で「藝術家」として研鑽を積むことです。故に「藝術家」である「死の藝術家」は次のように動機づけられます。

 藝術都市アテネスで藝術家として「藝術犯罪」に対応する一方、「アテネスが藝術都市として存在する」という事実そのものが「藝術犯罪」に纏わるあらゆるものをアテネスに吸い寄せるのです。

 アテネスはあくまで一都市に過ぎず、そして藝術を志すものは世界中に存在します。優れた「死の藝術家」の発生がいかに稀であったとしても、その人物が真に優れているならば相応しい場所を求めアテネスへ赴くでしょう。そここそが藝術の街、藝術都市なのですから。


アテネスの藝術観について

 冒頭にてアテネスは「デュシャンら以前」――つまり「現代美術」以前の世界であることを述べています。では藝術都市アテネスにおいて権威的な藝術観はどこにあるのでしょうか。

 それは夢幻美術館所属の二人の芸術家を並べることでよく掴むことができます。一人は「ブグロー」もう一人は「マネ」です。

 ブグローの「藝術」はアテネスで広くその価値を認められています。本人も絵画教室を開き、ホールでの講演会を求められるほどその名声は高いものです。

 一方、アテネスの支配的な藝術観からは価値を見出されていない藝術家も存在します。その一例がマネです。

 現実に目を向けるなら、アカデミズム美学が強く、印象派の先駆となったマネはまだ価値の発見がなされていない時代です。必然、同美術館所属ゴッホもアテネスでは評価されていない画家に名を連ねることになります。

 私が哲学勢なのもあって、引っ張ってくるのは「イデア論」になります。アテネスでは細部的な写実性は評価に値します。ある戦争(a war)を適切に描き出せていればそれは評価に値するのです。また個々の戦争ではなく戦争一般、つまり戦争のイデア(war)を描くことも評価に値します。現実にてブグローが「a war」でなく「war」を描きたいと述べているそうで、ブグローが権威的であり、それ以前の藝術家たちも当然に価値を認められているので、現実の模倣(ミメシス)としての藝術と、現実にはあらわれない完全なるイデアへのアプローチの両方に藝術的価値があるのでしょう。

 注意に値するのはマネの周囲です。「夢幻美術館」は館長を含めた多くがマネの藝術の価値を認めており、また美術館外でもマネの影響を強く受けその価値に感銘を受けている「落選会」が存在し、権威に憤慨し暴れ回る事件も生じています。更に大権威の一人ですらこのように述べているのです。

 ポワゾ教授はマネの落選に反対していません。この反対していないという表現が大切なのです。彼は「落選に賛成した」のでも「落選に反対した」のでもなく「落選に反対しなかった」のです。つまり、彼は積極的に自分の立場を示せませんでした。その理由はなぜか、彼が「語る言葉」を持たなかったからです。

 アテネスの批評界は先駆印象派以前、現実の現代であれば山ほど出てくるだろうマネを評論するための観点や技法、概念の発見に至っていません。そのため、ポワゾ教授は「語る言葉」を持たず、「良いとも悪いとも評価を下せず」ゆえに周囲が「落選」を主張する中で「反対という立場をとる」ことをしなかったのです。なぜなら反対するための言葉が彼の中にないからです。

 彼は批評家として極めて誠実だと思います。マネの藝術を真剣に鑑賞し、自身にも批評界にもまだそれを語る言葉がなく、ゆえに「語る言葉を持たない」として消極的立場を示しました。

 「センス」のある夢幻美術館の藝術家たちはマネの不遇に見る目がないと憤慨していますが、批評家であるポワゾ教授がこの立場を表明したことは極めて真摯です。更に彼は決して理論だけを捏ねくり回しているわけではありません。たとえ言葉がなくとも、彼はアテネスの権威であるに足る極めて優れた、先見性のある審美眼を持ちます。

 批評家として「何と言えばいいのかわからない」が、藝術都市アテネスにて権威に座し芸術界を見守る者として、マネの絶筆は損失に値すると彼は断言します。

 ゆえに「落選」に反対しなかった彼の批評家としての態度と、マネへの激励は両立するのです。権威ある批評家の描写としてポワゾ教授の態度は極めて誠実であり、そうでありながら藝術の未来を切り開く者、藝術の概念に新たな地平をもたらす者への激励にも満ちています。冒頭でデュシャン以前を扱っていることを述べましたが、このマネの落選とポワゾ教授の弁明を見て、ガールズクリエイションのメインストーリーは決して「藝術という概念」を所与とすることなく、逃げずに真正面から取り扱おうとしているように私には見えます。

 またマネを通してアテネスの藝術観の先端を示すと同時に、ガールズクリエイションは「イマージュ」を用いてもう一つの検討も行っています。イマージュとは藝術家の藝術作品に魂が宿り少女などの姿をとって顕れることです。その定義上イマージュを生み出したならばそれは藝術作品です。

 アテネスでは評価されていない画家であるゴッホですらネイトのようなイマージュを生み出しています。つまりゴッホが生み出しているものは藝術に相違ありません。しかし、そうなると「どこまでがイマージュを生み出すに足る藝術作品なのか」という問いが立ちます。その問いの一例として明白に立ち上がってきたものがあります。

 「原始藝術」――あるいは「先史美術」と言い換えてもいいでしょう。つまり、「有史以前に洞窟に描かれていた壁画等はイマージュが羽化するに足る藝術作品なのか」という問いです。

 「夢幻美術館」では幾度も藝術作品からのイマージュの羽化が阻害される事件が発生しており、しかし阻害者には敵意が全く見られません。更に美術館所属のイマージュたちは彼らの姿や空間にプリミティブなものを強く感じています。また、阻害者たちにはイマージュの姿を真似ようとする試みもみられ、これは「藝術はミメーシス(模倣)である」という藝術観にならい、彼らもまたイマージュをミメーシスしているのではないかと皆は考察します。そこで「原始藝術」という洞窟壁画等が、既に芸術的価値を確立している藝術作品に惹かれ、意図せずしてその圧迫がイマージュ化阻害の原因になっているのではないか――という筋で現在連続イベントシナリオが進行しているところです。マネが先を見る形で藝術を語ろうとしているならば、この連続シナリオは後ろを振り返る形で藝術を語ろうとしているわけです。

 更に、メインストーリー1章の段階で行方不明になっているゴッホの妹テレサは、ゴッホが評価されない事に心を痛めながら姉を支え続けてきたのですが、ある日行方不明になってしまいます。メインストーリー各章では藝術犯罪の影に彼女の陰が垣間見え、最新4章では次のように告げられています。

 「死の藝術」方面からも「藝術」性についてアプローチがなされており、こうして幾つもの線から「藝術」「芸術的価値」について検討がなされているのがガールズクリエイションであり、決して安易に擬人化しておしまいにせず「藝術」に様々な視点から向き合ってみようとする姿勢はとても好感が持てるもので応援したいものです。

 もう一つ、上の画像の「フォニー」という少女をもって余談を行います。ガールズクリエイションのキャッチコピーは以下です。

これは美しき藝術家たちと
死の藝術を巡る物語――

 しかし、フォニーは犯罪組織に名を与えられ、変装と贋作作りを叩き込まれオリジナルの作品を一切作ることができないよう(敢えて作ろうとすれば手が震えるほど)叩き込まれ、挙げ句の果てにこれです。

 「夢幻美術館」の藝術家は皆「顔が良い」です。文字通り「美しき藝術家たち」でしょう。しかしフォニーは? 彼女の顔面は薬で焼かれ、おそらく隠された布の下は決して文字通りの意味で「美しく」はありません。しかし、メインストーリー4章でロダンはフォニーに手を伸ばし、フォニーはその手をとりました。フォニーは罪を犯した少女です。しかしロダンの友人であり、夢幻美術館の仲間であり、おそらく皆がきっといつか何もかもが模倣だらけの彼女が彼女だけの藝術を生み出す藝術家になることを応援してくれます。いつか彼女がオリジナルを生み出したとき、「美しき藝術家」という概念に顔を焼かれた少女も該当するでしょうか? 美しいとは何か。フォニーという少女をもって、これも一つのテーマになっているものと私は思います。


藝術家たちの「直球? 変化球?」すぎる魅力の活写

 以上の概観からガールズクリエイションは世界や人々、そしてテーマをかなり丁寧に活写していることをきっと察していただけたと思うのですが、館長と特に深い関係を結ぶ夢幻美術館の藝術家たちの魅力の活写にも一切の手抜かりがありません。私は特にブグロー御大とロダンのようなものに心を撃ち抜かれているので、今回はブグロー御大を例に語りましょう。

 ガールズクリエイションにおけるブグロー御大――ブグロー先生はアカデミズム派の権威としてではなく美少女画家としての性質が強く押し出されています。

 彼女は美少女とえっちなものが大好きです。基本彼女は美少女のエロさとパンツとチラリズムについて熱弁して恍惚としているような子です。豊満には豊満の、スレンダーにはスレンダーの魅力を見出しえっちだぁ……と熱い溜息を吐いています。そんな彼女が自分自身の体については価値を見出しておらず単に貧相だと思っている――このあたりまでなら私もなんとかテンプレエロ少女で耐えられました。

 しかし、彼女と紡ぐ絆は驚くほど静かで穏やかで、その関係性はプラトニックに高められていきます。たとえば、館長とブグローの乗馬シーンなど好例でしょう。

 熱弁を始めると止まらない人ですが、ブグロー先生本人の気質はあくまで物静かな人です。乗馬し風を感じながら雑念を払っているのも彼女の日常の姿です。

 ふたりのりも初めてのことで、しかしブグロー先生は決していつものハイテンションにはならず穏やかにその時間は流れていきます。

 館長はいつも夢幻美術館の館長として藝術家である彼女を見ているので、美少女画について熱弁するブグローをいつもの姿と認識しています。しかし、ブグロー先生にはブグロー先生の日常があって、その中で微笑むブグローの姿が新鮮かつ本来のものとして館長に突き刺さります。

 このストーリーは終始この静かで柔らかな時間の中で展開し、最後に夜の中美少女画の話題に軽く脱走してからもう一度この静かな時間に戻って幕を下ろします。ふたりでまた乗馬する約束を取り付けて。このあたりでだいぶブグロー先生にやられていたのですが、彼女はまた別の姿も見せてくれます。

 以前の項目でマネが認められておらず、ブグロー先生は教室を開きホールでの講演を求められるほどの権威だと述べました。しかし、ブグロー先生は講演に出ることにひどく及び腰です。

 理由は簡単です。エロトークです。

 ギャグに見えるかもしれませんが、シリアスな問題です。ブグロー先生はそのような話題は望まれないし、最悪アテネス市警が来るほど迷惑なことだと自覚しています。そしてもうひとつ、彼女にとって決定的な問題があります。

 先述のとおり、ブグロー先生は自分自身を単に貧相であり美少女であると認識していません。これには大きな理由があります。

 彼女は親から「可愛い」と直接可愛がられた覚えがほぼなく、そのことで「自分はその程度のものなんだろう」と認識してしまっているのです。もちろん彼女の母は母なりにブグロー先生を育てるために必死でした。決して何もしなかったわけではなく、唯一の思い出として彼女には「人形」が残っています。

 故に館長は一芝居を打ちました。

 ブグロー先生の教室で学ぶ生徒に、役所に出す書類に必要だからと評価を求めたのです。彼の答えは――「二重丸をつけてください!」でした。

 ブグロー先生の生徒は、こちらが言葉を挟む余地のない程の熱弁を振るい、ブグロー先生の講義がいかに素晴らしいか、「愛を筆に乗せて描く」ことがどんなに楽しいか語り、講師であるブグロー先生自身がとっても可愛らしい美少女だと断言し、いつも教室に通うのが楽しみだと宣言するのです。

 彼だけではありません。他のストーリーでもブグロー先生の生徒はちらほら出るのですが、皆ブグロー先生のことが大好きで尊敬しています。館長もまた、ブグロー先生に敬意を払う美術界の人間の一人です。だからこそ若干の怒りも込めてブグロー先生をこの生徒のところへ無理矢理引っ張って一芝居打ったのです。

 そして、ブグロー先生の薫陶を受けた彼が描いてみせてくれたのが、

 母からの愛に餓えていたブグロー先生。彼女の教えは「愛を筆に乗せて描く楽しさ」を生徒に与え、その結果として生徒はとても楽しそうに愛に満ちた藝術を生み出しました。

 彼女の教える生徒が、彼女自身の指導は最高だと、彼女は可愛いと断言し、そして彼女の至ることのなかった境地にさえ至るのです。全てブグロー先生の教えのおかげです。ブグロー先生の教示にはそれだけの価値があり、ブグロー先生自身にもまた人を惹き付けてやまない価値があるのです。

 生徒の言葉を聞いたあと、ブグロー先生はぽつりと漏らします。あの生徒のあんなにも熱く語る側面を彼女は見たことがなかったのです。

 普段は物静か。一つの物事に熱中し、物凄い集中力で挑む。大好きな事になると話し出したらとまらない――そんな生徒の姿は、ブグロー先生そのものです。大好きなブグロー先生の教室に通っている生徒たちは、つい彼女の癖までうつってしまい、それをもって彼女をブグロー先生は素晴らしいと自身の全存在をもって肯定しているのです。

 自分をその境地まで連れて行ってくれたブグロー先生に、妻と娘のとってもかわいい絵を描くまでに導いてくれたブグロー先生に、だからこそ生徒は万感の思いを込めて告げるのです。

 藝術家としての自身の姿と生み出した藝術作品をもって、生徒はブグロー先生の教えは間違っていないと証明します。だからこそ、

 喝采に包まれて退場する至宝ブグロー御大の姿は、あまりにも当然のものであり、そして同時に誇らしく、尊敬に値するものでもあるのです。

 こうして彼女を知り、彼女と絆を結んでいき、少しだけブグロー先生に近づけたあとプロフィールを見るとその一つ一つに意味があって、その強烈な魅力に打ちのめされてしまうのです。

 私に突き刺さっているもう一人、ロダンのようなものについても語りたくてたまらないのですが、止まらなくなるので措きます。メインストーリー4章のロダンのようなものは最高でした。物語の主人公として完璧であったとともに、最後の最後で館長にぶつける直球の破壊力が凄まじく、「1~3章のヒロインを見ろ、ロダン! メインストーリーで独走するな!! ロダン!! ロダン!!?!?」と気が狂いそうになるほどでした。実際、映し身である館長本人も拍動をおさえきれないほど動揺し、ダウン寸前の状態においやられていました。4章、良すぎましたね……ロダンの全てが伏線になって最後の一撃に乗っかってきました(二回目)


結びに

 BGMが滅茶苦茶良いんですよ、メインテーマアレンジのメインストーリーボス曲とか!!!! あとガチャ曲がよすぎて無駄に回したくなるのとか!!!! とか語りたいことは山ほどあるのですが今回はシナリオ語りなので措きます。

 ガールズクリエイション、好きな点を語り出したら止まらないくらい良いところがたくさんあるのですが現在進行形で様々なシステムに改修が入っているほどゲーム部分に課題が多いピーキーな作品です。加点式と減点式で評価の差が物凄いことになるゲームと言えるでしょう。

 それでも、物語を追うだけの価値とパワーがこの作品にはあると思うので頼むー! ガールズクリエイションをやってくれー!!! という気持ちでnoteを作成しました。

 最初のガチャは引き直し可能で複数の最高レアが出ます。専用装備で6歩歩ける居候の記憶喪失少女アルテちゃん、全体リジェネ付与が強すぎるミケランジェロ、遠距離高火力技を豊富に持つ天才ラファエロ、そして単騎で暴れ回る完結したアタッカーとして完成度の高いブグロー先生あたりからお気に入りの2人~3人でるまで粘るとよいかと思います。

 UIも独特で慣れるまで少し苦労しますが慣れます、あと改修頑張っていらっしゃいます。

 習うより慣れろの勢いで藝術都市アテネスに飛び込んでみてください。そしてお気に入りの藝術家(あるいはイマージュ)の物語を追ってみてください。きっと深くこの物語を楽しむことができると思います。

 ガールズクリエイションのシナリオはいいぞ


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