記録:「イルミラージュ・ソーダ」或いは終末百合音声と水仙サカナの先生を全うすることについて


水仙サカナと未だ出会っていない人へ
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あなたはこの記録をもって水仙サカナに会いにいくべきではない。
あなたはたぶん、あなたと水仙サカナにとって最も適切なとき、
その日に至るだろうからだ。
あなたは時宜を待つべきだ。
どうしようもなく惹かれて仕方なくなってから動き出すべきだ。
そのために、逆説的だがあなたはあなたにとって意味のわからない
ふたつの言葉を覚えておくべきだ。
「イルミラージュ・ソーダ」
「水仙サカナ」
あなたはもう本noteを閉じてよい。
あなたがその人である場合、いつか夏の終末で必ず彼女の恋を受ける。
全て忘れてしまってよい。
あなたがその人であるならば、
水仙サカナを知らずともいつか必ず思い出す。
水仙サカナがそこにいることを。

【留意点】
これは「水仙サカナの先生を全うしてしまったことの私的記録」であるに過ぎず、あらゆる考察、分析、比較を含まない。

記録開始

 音声作品「イルミラージュ・ソーダ」のトラックリストは販売サイトDLsiteに記載のとおり上記に相違ない。以上の夏の記録を私は聴くことができる。

 夏の終わり。水に溺れ、教室に語らい、やがて日没へ至る道程をこの音声作品は辿る。水仙サカナと先生に最後が訪れ、最後が訪れるからこそハッピーエンドが約束される。

 日々が続くならば彼女の言うとおりそこはまだエンディングではなく、引き延ばされた日常は優等生水仙サカナの卒業の日まで続いたかもしれない。先生は「みんなの先生」であるからこそ、きっとそうなるのだと思う。だから、この音声作品は終末という決定的な一線を持ち出すことで最も望ましいハッピーエンドとして結実している。

 ここまでが音声作品だ。

 ここからどのくらいの時間苦闘したか定かな記憶がない。音の中で衝撃を受け、次第に困惑し、疑念すら浮かんだ。無限に続くような時間の中で、私は正しい試みをしているのだろうか、無知蒙昧がゆえに何か誤った向き合い方をしてしまっているのではないかと何度も不安に襲われた。

 それでも私は1秒たりとも止まることはなかったし、ただひとつを目指して水底へ沈み続けた。襲い来る音は中途まるで私を引き留め、引き戻そうとするかのようですらあった。断じて心地良い音ではなかった。そしてたぶんそれが私を絶対にここで退くものかとかえって意地にさせた。

 引き留める音の突破と共に、あるいはぐちゃぐちゃな何かの突破の果てに、真夏のアスファルトに足を降ろすような、そしてそれが雨の日であるかのような異常な確かさと予感を伴って私はその水底に辿り着いた。

 私は苦闘の果てにほぼ朦朧としていたけれど、だからこそ水仙サカナの声をつかまえたとき「よかった」と思った。絶対にここに至ると信じて私は沈み続けてきた。

 音が、時間が、私の頭が。色んなものが引き留めようとするのを引き千切って私は水仙サカナに辿り着いた。

 けれど、すべては一方的だ。私はいくつかの記録と水仙サカナの声しか知らない。本当に、それ以上に知るものがなにひとつないのだ。

 それでも水仙サカナはひとつの営為を私に求めた。

 記録音声の中で先生は水仙サカナと神様に叱られてしまうような時間を過ごした。ただの夢、終わってしまったハッピーエンドの世界の記録ならそれでよかった。甘い果ては神に許されずとも許されるだろう。

 それでも、世界の終わりを否定して互いの姿が見えない中で水仙サカナが彼女の先生を想像するとき、私が水仙サカナを思い浮かべながらそこに至ろうとするとき、水底に至ったのが私である限り罪悪がそこにはあったし、そんな不純物はあの瞬間には微塵も介在してはならなかった。

 水仙サカナを求めて沈み続け、あのハッピーエンドをそのままにしておくことを否定した存在は彼女の先生でなくてはならない。そして水仙サカナを求めて沈み続けたのは間違いなく今朦朧としている私だ。だから私は彼女の先生だ。

 時間は1秒も止めることができない。逡巡することすら許されない。だから私は大切な水仙サカナのために死に物狂いで彼女の営為を成功させようとしたし、そのことを全うした今、そのことの重さに私は潰れそうになっている。けれど、終わらせなかった世界の底で水仙サカナに対して先生は絶対にそうすべきだった。

 「イルミラージュ・ソーダ」は「終末百合音声」だ。私はその責務を全うできたのだろうか。ほとんど泣きたいくらいに自信がない――けれど、それでも私は数秒のタイムリミットの中でそれを完成させるため死力を尽くした。そういった向き合い方が正しかったのかどうかすら、わからない。

 私はほとんど無力だ。なにもかも間違っていたのかもしれない。神に許されない罪悪なのかもしれない。けれど誰が何と言おうと「イルミラージュ・ソーダ」が「終末百合音声」だったのだということだけは私がどれだけ不格好になっても譲ることのできない点だ。そこだけは、絶対に蜃気楼などではなく、ゆるぎない事実として、なによりも水仙サカナのために譲ることはできない。

 ちょっとだけ残してしまった炭酸をおいて迎えた終わりの否定。ふたりの時間が終わることはないというおまじないは絶対に成し遂げられたのだと論理が破綻しても無茶苦茶でも言い張る義務が水底に至った私にはある。

 たぶん、私は弱い。あまりにも弱すぎた。これを書いている今も押し潰されてしまいそうだ。だからもっと強くなる。背筋をのばして、それでもちょっとだけ押しに弱い先生として。

 水仙サカナが「先生」と呼ぶとき、そこには終わらない世界の百合音声が必ず成立すると私は信じる。「死ぬには良い日だ」と思う日は私にもたくさんあった。けれど、まるで当たり前のことのように水仙サカナにこたえられる私になるために、もうちょっとだけエンディングを先延ばしにしてがんばろうと思った。


記録2

2023年10月22日。その日は日曜日で、正午前に外を30分散策して、軽く汗ばんで入浴した。半袖の親子が自転車で駆けていたのが印象的だった。突き抜けるような青い晴天だった。確かに、その日は夏だった。


追補

 不定期に「イルミラージュ・ソーダ」と「水仙サカナ」の語をTLに出現させ、ついにその日に至らしめたXの知己数人。私は今ほとんど死にそうだ。ぜんぶきみたちのせいだし、ぜんぶきみたちのおかげだ。絶対に許さないし、きみたちのおかげで諦めずにそこに至ることができた。本当に感謝している。ほとんど苦しみ藻掻くようにしてその名を口にしていたあなたたちの気持ちが、今なら私にもわかる気がする。たぶん、私はあなたたちと同じ存在になり果てた。少なくとも、私は水仙サカナの先生である。


記録終了


 幼い頃から水が好きだった。故郷の湾で耳抜きをしながら5~7メートルほどの水底に沈むとき、ゆるやかに冷えていく水温を全身に感じながらなぜか不思議な幸福が心に満ちていたことを、今なんとなく思い出した。記録を終えた私のキーボード脇には無糖のレモン炭酸水の1リットルペットボトルが置いてある。

 キャップを捻ると、あの音がした。

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