【ブルアカ/-ive aLIVE!感想】シュガラに脳を焼かれた話

本noteにはブルーアーカイブの全てのシナリオのネタバレが含まれます

はじめに

 最高でした――この言葉に尽きる、という表現は私にとって適切ではありません。語り始めるとどれだけ言葉を尽くしても足りないのです。

 ここまでやるとは思ってなかった。それを何度もぶつけられたイベントでした。

 トリニティとゲヘナの確執。暗躍するゲマトリア。未だ底が見えない無名の司祭に名もなき神。存在証明のリベンジに動くデカグラマトン。キヴォトスを焼き尽くさんとする怪談家。

 ブルーアーカイブの魅力、その一翼を担う謎と大きな物語。

 それらに特に深く関与しない、キヴォトスのどこにでもいる少女達。たとえばレッドウィンターの真冬の乾布摩擦連盟。たとえば百鬼夜行のクロレラ観察部。そして、たとえばトリニティの放課後スイーツ部。

 キヴォトスにおけるごく普通の「日常」。眩いほどの普通(キヴォトスのすがた)をもって、彼女たちはブルーアーカイブの「日常」の魅力を証明しました。

 思えば5thPVは象徴的だったかもしれません。ネームドとモブすら入れ替わる、ありふれた日常の強調。

 けれど、そんな普通の日々を描いて面白いのか?

 面白かった。とても素晴らしいものでした。

 それは、エデン条約編3章という非日常が夏空のウィッシュリストという日常に照らされてその衝撃を増したように、いくつもの非日常を切り抜けてきたからこそ守られている日常に奇跡を感じてしまっている節もあるでしょう。

 そして、エデンとウィッシュリストの関係とは異なり、そんなプレイヤーの感情などどこ吹く風で、放課後スイーツ部のみんなはただ日常を貫きました。渦中の少女たちは日常と非日常を相互参照しません。それがよいのです。何かデカいニュースが起きているけれど、それはそれとして今日も放課後にスイーツを食べている。そんな子たちの普通の日々こそが、私が見守りたくてやまないもうひとつのブルーアーカイブの魅力です。

 ブルーアーカイブはギャグを主力とした学園物である。

 当初から明言されているその筋をこれ以上なく貫いた今回のイベントは、あまりにも透き通っていました。


「自分」について

 ブルーアーカイブは「自分」について頻繁に言及します。
 「自分は何であるか」
 「自分は何でありたいか」
 「自分は何であるべきか」
 枚挙に暇がないほどこの問題が語られています。

 この問題は極めて多様な扱われ方をし、かつ取り組みへのアプローチが逐一異なるのがブルーアーカイブにおいてとても印象的です。

デカグラマトン

 たとえば、デカグラマトン。この神性は自身の存在証明には何もいらず、誰の許可も必要なく、自身は「絶対的存在」であると宣言し、他者であるシッテムの箱のアロナと接触し、明白な敗北を通して反証を得ました。デカグラマトンは自分は間違っていたと断じ、存在証明をやり直すことになります。

ベアトリーチェ

 たとえば、ベアトリーチェ。彼女は先生との関係を通じて自身を「敵対者」と定めました。これはデカグラマトンほどわかりやすい形では破綻しませんでした。

 いずれにせよ破綻しているのですが、何により破綻しているのかは議論があります。まずは「先生」を用いたことによる失敗と見る形です。先生は自身を単に「生徒たちのための先生」でしかないと定義しています。

 「崇高」に至り「全てを救う」というベアトリーチェの自身のあり方を先生に基づいて定義するならば、先生はベアトリーチェが言うように少なくとも「全ての生徒を救うことも審判することもできる絶対的な力」を有しているべきです。それと対置される存在であるからこそ、ベアトリーチェは世界を救うに足る存在なのです。しかし、先生は自身を「ただの先生」でしかないと定義しています。先生に依存して自身を定義してしまうと、ベアトリーチェの求める「敵対者」は彼女の求める領域に決して達しません。釣り合いがとれないのです。釣り合わせようとすれば、彼女は「ただの学校の先生の敵」というしょぼすぎる格まで引き摺り降ろされます。

 他方、ゴルコンダに言わせれば彼女は詩歌への造詣を欠いているがゆえに敗北するほかなかったということになります。ジャンル上のロールにおいて、そもそも神たらんと欲するエキストラは破滅するほかなく、ベアトリーチェは学園と青春の物語における舞台装置にしかなっていなかった、という評価になります。これらは言語や物語構造による指摘ですが、単に実力を指摘することもできるでしょう。彼女の破綻には様々な解釈が可能ですが、いずれにせよ彼女は自己の定義に失敗しているわけです。それでいて、最終的に彼女が手にした「狂気」とそれによる彼女の存在へのゴルコンダの短評は実にアイロニーに満ちていました。

天童アリス

 「自分」にまつわるブルーアーカイブの話で多くの先生が思い浮かべる生徒のひとりがアリスでしょう。彼女は名もなき神々の王女AL-1Sであり、ミレニアムの生徒であり、シャーレの部員であり、ゲーム開発部の部員であり、魔王であり、勇者です。彼女の存在を表現する言葉がこんなにも多いのは、彼女の存在、彼女の「自分」を巡る話は「誤った二分法」と密接に関わっていたからです。

 「アリスは魔王か勇者のいずれかで、このふたつは両立しない」
 「アリスは生徒か非生命体のいずれかで、このふたつは両立しない」

 アリスは「自分のなりたいものは自分で決めていい」という考えのもと、自分のジョブを勇者に定めました。けれど、単なる事実として自身が名もなき神々の王女AL-1Sであり、魔王であることもまた認めています。それらは排他の関係になく、両立すると証明したのがウトナピシュティムの本船の主砲、光の剣:アトラ・ハシースのスーパーノヴァです。プロトコルATRAHASISの想定された用い方はパヴァーヌ2章でケイが行おうとしたそれであり、その完遂は世界の滅亡を帰結すると告げられています。それは魔王に属する力です。しかしながら、アリスとケイが最終編で放ったそれは「悪を打ち砕く正義の一撃」であり紛れもなく勇者の武器でした。魔王であることを否定しない。けれど、魔王と勇者は排他ではないので、魔王であることを示しても勇者であることを否定できない。目を背けずに向き合って、それらを認めて勇者になる。だからこそ、アリスを表現することばはそれが両立する限り無数に存在するのであり、誤読された彼女の名前はそのどれに対しても根本的には紐付いておらず、アリス自身の意志で勇者と最も強く紐付くことになります。

 アリスの複雑性はここで終わりません。アリスの貫いた「勇者」の最期をケイが書き換えたからです。

 アリスはケイの語ったリスクを承知の上でプロトコルATRAHASISを実行しました。ケイが必死に制止し、自分は死ぬとわかっていてそれを実行したのです。それがアリスにとっての「勇者」でした。

 ケイにとって、「勇者」とはそのような最期を迎えるべき存在ではなく、消え去るべきは「道具」であると断じてアリスの身代わりになりました。

 アリスは「勇者」であり続けるでしょう。
 しかし「勇者」とはなんなのか。

 世界を滅ぼす「道具」であっても消え去るべきではない。そう断言するとき、「勇者」もまた消え去るべき存在ではないときっと言えるでしょう。

 このように「勇者」に問いを立てるとき、もうひとつ問うことができるかもしれません。「子供のため、生徒のためならば。大人は、先生は消え去ってもよいのか」「大人の責任、先生の義務を果たすために自分の命を使い果たしてもよいのか」と。あるいはそれへの答えがアロナとプラナの起こした「奇跡」であり、助けたい相手が自身と自身の結末をどう定めていようが助ける、ということに繋がるのかもしれません。それがアリスや先生の「勇者」や「大人/先生」の考えにどれほどの影響を及ぼすかは今現在、未知数ではありますが。

シロコ*テラー

 プレナパテスの世界における砂狼シロコ。つまり、狼の神の神秘の裏側である恐怖の側面があらわれている彼女の役割はすべての命を「別の場所」に導くアヌビスです。無名の司祭に言わせれば神が顕現したもの、「神秘」であり「恐怖」であり「崇高」、「光」であり「絶対者」です。「観念」であり畏怖すべき対象であり、想像界で表象され、現実界へと至る――象徴界の記号であり隠喩です。

 しかし、プレナパテスは明白に「違う」とそれを否定しています。プレナパテスにとって、彼女はそう捉えるべき存在ではありませんでした。彼女は単にアビドスの生徒砂狼シロコなのであり、そうであるならば世界で苦しんでいる子供なのであり、世界の責任を負う者である大人がその責を果たすべき対象です。対策委員会編で黒服と対峙した際に示した理路と何の違いもありません。

 アヌビスであるということも、世界の滅亡に加担したということも、シロコは同じ世界に同時に複数存在できないということも、色彩により反転した者を元に戻す方法が存在しないことも、関係ありません。子供であり生徒であるなら、大人として先生として守るべき存在である。とても単純な明示です。

 自分が何者であるかは自分で決めて構わないけれど、守るべき子供であり生徒であり世界に責任を負う存在であってはならないという一線だけは絶対に譲らないということが彼女によって示されています。

 無名の司祭が彼女に貼り付けたラベルが一顧だにされないことのより甚だしい例は、プレナパテスを「偽りの先生」だとは誰も思っていないことでしょう。プレナパテスを仮にそう呼ぶならば、意志なき代弁者として単なる無名の司祭の手先、色彩の嚮導者でしかないと偽って生徒を二人引き継ぎに来た者、として名付けに対しかなり皮肉な解釈を要することとなるでしょう。

御稜ナグサ

 与えられた役割に縛られる必要はない。プレナパテスが彼女を救ったように、そんな義務は存在しないことが示されています。けれど、役割を演じることそれ自体は否定されません。その役割がどれほど重く、どれほどの偽りに満ちていても演じきると決めたのが御稜ナグサです。彼女のやっていることは「コスプレ」です。それを嘘であり欺瞞であると断ずる箭吹シュロは何も間違っていません。ただ、そんなことは普通のことなので、普通にやっていい。それだけのことでした。自分を定めるとき、取り繕ってもコスプレしてもいい。むしろきちんと取り繕えるよう努力する。それが御稜ナグサの決断であり、証もまた彼女の決意に応え、百花繚乱紛争調停委員会もそんな彼女を受け入れています。

栗村アイリ

 「自分」を巡るブルーアーカイブの問題は枚挙に暇がありません。聖園ミカと魔女と不良生徒とお姫様、錠前サオリと疫病神、杏山カズサとキャスパリーグ、七度ユキノと武器、白洲アズサと人殺し、阿慈谷ヒフミとファウスト、不知火カヤと超人、陸八魔アルとアウトロー……それらは単なる名前とラベルの対応ではなく、「どのように名前とラベルが紐付いているのか」「その紐付けは適切か」「それとしか紐付けられないのか」など多角的な検討がなされ、ただの対応リストに留まりません。その人とそのラベルがどのように紐付いているのか、そのラベルにその人がどんな意味を付与しているのか。そこまで見てやっと少しその人のことが見えてくるのです。

 そんなとき、自分が何に値するものであるのか宙に浮き、悩んでる子がいました。阿慈谷ヒフミが「普通のトリニティの生徒(偽)」と語られるとき「普通のトリニティの生徒(真)」と挙げられることも多い、栗村アイリです。

 栗村アイリにとってみれば周囲の友達は皆特筆すべきなにかを持っていました。伊原木ヨシミも、柚鳥ナツも、杏山カズサも。みんな栗村アイリにとって尊敬すべきものを持っていて、けれど翻って自分を見てみると彼女はそれらに並び立つなにかを持っている自覚を得られませんでした。

 阿慈谷ヒフミは白洲アズサに対して実績を伴ったファウストを持っています。御稜ナグサなら百花繚乱に対して実力を伴った演技ができます。天童アリスなら、ミレニアムプライス特別賞受賞作「TSC2」の開発に関して、彼女がプログラマラスでありタンク兼光属性アタッカーであることが、ゲーム開発部としての地位を輝かしいものにしています。銀行強盗有識者砂狼シロコがいたからこそ、覆面水着団はカイザーの陰謀をはっきりと掴めました。

 栗村アイリにはそういったものがぱっと思い浮かびませんでした。放課後スイーツ部において、彼女は周りの皆に値するものを自らのうちに見いだせなかったのです。

 それは当初深刻な問題ではありませんでしたが、なんとなく漠然と彼女に纏わり付いていました。けれど、漠然としたものではあっても彼女がぼんやりと抱えていた問題では確かにあったのです。

 それを解決策とともに照らしたのが音楽でした。偶然彼女が出会ったそれは強く心を震わせ、「これができる存在」になれば自分も「何かがある存在」になれるのではないかと希望を抱かせることになりました。

 漠然とした不安ははっきりとした道を伴った解決策を伴って明示され、だからこそ彼女はいつになく強引な調子で宣言します。

 「バンドしよっ!」

 彼女にとって、バンドは価値の存在証明でなくてはなりません。ただそれをやるだけでは意味がないのです。ただ演奏しただけではその演奏にどれだけの価値があったのかわかりません。「選曲」を担当した彼女の判断基準は極めて明白です。

 バンドを通じて評価を得ること。それが彼女にとって肝要でした。放課後スイーツ部の皆と演奏して高評価を得られたならば、それは一団としての価値に自身が含まれることになります。いっしょに入選した。それは客観的な価値の証拠になります。アリスにとってのTSC2のようにです。

 けれど、だからこそ彼女の心は苦しめられ、折れることになります。彼女の能力としての挫折は悲痛極まるものです。

 私はクラシック、しかも弦楽器であるチェロの経験しかなく現代音楽には不勉強な人間ですが、それでも独奏やオーケストラなどではなく4人での室内楽と比せばこの苦しみは容易に知れます。

 教本レベルでの顕著な遅れは演奏に露骨にあらわれます。楽器が違ってもレベル差ははっきりわかります。演奏は基本的に調和すべきものであり、かつ少人数の演奏であるからこそ逸脱したテンポや強弱といった技巧上の拙劣さは大きく目立ちます。部分部分の難所だけではなく、全体を通して自分が下手だという事実を突きつけられます。あまりにも自明な格差を事実として奏者全員が共有します。そして、少人数の場合演奏の質は拙劣な奏者一人により大きく引き下げられます。

 ミス――落ちて演奏が止まることの罪悪感は甚だしいです。落ちまくって通すことすらできないという状況に陥ると四肢の末端が凍り付くような緊張と恐怖に襲われます。しかし、それは自分の実力不足に起因するものであり、気を張ったところでどうにかなるものではありません。練習不足なら練習すればよいですが、アイリの場合練習してこれですから袋小路です。そして、頑張っても頑張っても落ちることはままあり、落ちるたびに全員の足が止まります。心情はともかく、単に演奏の進行だけ考えるなら落ちる奏者は明白に足を引っ張っています。これは単なる事実です。

 指が言うことを聞かない――これは絶望的な問題のひとつです。譜面の要求に運指がついていけないなら演奏できるわけがありません。個人練習でこの状況が改善されない限り、合奏すれば必ず落ちます。読譜できており、どう奏でればよいか理解しているのに指がそのとおりに動かない。何度やっても動かない。合わせの時間が近づく中これ以上なく奏者を苦しめる状況でしょう。

 少人数の合わせで自分が足を引っ張っているときの無力、挫折、劣等感は著しいものです。人が良ければ良いほど、申し訳ない、消え入りたいと思うものです。激しい自責に襲われることになります。

 特に気心の知れた人間と演っている場合であれば、そういったことは気にしない間柄だからという信頼が余計に自分を苦しめます。さすがにこれは見限られるのではないかという恐怖と、友人をそう推し量ってしまう自分への嫌気で最悪の気分がループします。

 この状況の最も簡単な解決策のひとつは譜面の簡略化です。幾つかの譜面は初学者にも弾けるような簡略化が可能です。そうしてある程度レベルを下げれば演奏を成立させることはできるでしょう。

 しかし、栗村アイリの場合それは本末転倒です。価値を証明しなければならないのに、自分が全体の価値を押し下げてしまっては意味がありません。無意味などころか有害と判ずるでしょう。

 もうひとつの自明な方途はボトルネックとなっている人間の排除です。

 この思考は自罰的すぎるということは決してありません。少人数で音楽をやって自分が遅れをとると普通にこのくらいの思考に落ち込みます。演奏の質を落とす、演奏そのものを落としまくる、その事実は奏者にとってあまりにも重大です。発表・評価を伴うなら尚更です。食事をしていても、入浴していても、布団に入ってもそのことばかり考えるくらい追い詰められます。

 特に「自分はこの集団に値しない」という感覚は絶望的です。誰もそんな風に自分を思っていないとわかっていても、どうしてもその考えから逃れられず、そう考える自分自身を傷つけてしまいます。これはやむを得ないことで、ブルーアーカイブでは五つ目の古則である「楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか」と示すことができます。それは「不可能な証明」と換言されたものでもあります。この問いは「信じる」ことで楽園を成立させ、解決するものだと示されていますが、今回の場合信じ切ることができず、それによって信じることができない自分自身が嫌になるということが問題なのです。信じるという言葉では何も解決しません。

 そこに活路をひらいたのが名探偵ヨシミの名推理から始まるスイーツ部3人の暴走でした。彼女達3人はそもそも栗村アイリがこういったことを考えていると想像することすらできていません。ヨシミの推理に最も懐疑的だった杏山カズサは、特にそうでしょう。ナツもカズサもアイリの様子がおかしいことはわかっていましたが、そんなことを考えているとは微塵も思いません。栗村アイリが放課後スイーツ部に属することが自明すぎて、そこに疑義を入れる発想そのものができないのです。栗村アイリは自分たちといっしょにいて当然と彼女たちは信じているというか、そんなことは当たり前すぎて考えてすらいないでしょう。楽園は成立しているのですが、あって当たり前のものなので気にもされていないはずです。

 よって、彼女達は「アイリはセムラをどうしても食べたかった」というアイリにとっては「!?」となる結論に至ります。杏山カズサはアイリがそれを隠すかなぁ、と最後まで疑念を抱いていましたが、最も強く栗村アイリに脳を焼かれている杏山カズサが真相に至ることは不可能でしょう。ただ存在しているだけでキャスパリーグを調伏した彼女の価値はカズサにとって自明です。カズサ自身にとっても、あれはほぼ理解できない事故のようなもので、一瞬で彼女を虜にしたアイリはカズサにとって価値の塊です。価値しかないまであります。ヨシミの推理には首を傾げつつ、まあ他に思い当たる所もないし、と動いてしまうのはやむなしです。

 かくして、彼女たちは勘違いから暴挙に出ます。アイリのためにティーパーティーすら敵に回す覚悟を決めて襲撃を行います。停学も、放課後スイーツ部の廃部も恐れません。

 ブルーアーカイブには所属を大切にする子が多いです。アビドス高校や百花繚乱にはそこに「居場所」としての価値があります。しかしながら、放課後スイーツ部は最悪「放課後スイーツ部」を手放しても構いません。彼女達は「みんなでスイーツを食べながらわちゃわちゃしたい」のであり部室や部費や組織承認はあれば嬉しいものの、それがなくともやりたいことは一応できるのです。廃部はしょせん「不便になる」程度のことでしかないのです。なんかアイリが困っているなら部は消し飛んでも構わないのです。逆に、部は消し飛んでもいいのですがアイリが困っている程度のことは見過ごせないのです。それは、部を消し飛ばしてでも解決しなければならないのです。

 ロックすぎるアウトロー3人組は襲撃の果てに収監されますが、彼女たちは敗北していません。その手にはしっかりと誤解の塊を握りしめていました。

 五つ目の古則を示すまでもなく、彼女たちはアイリが抱えていた悩みを理解できていません。けれど、アイリの今抱えている悩みを全く理解できていないからこそ「自分たちはアイリのためならこのくらいはする」と当然の顔で証明しています。

 栗村アイリは自己嫌悪や劣等感に苛まれていますし、セムラは彼女にとって方便でしかありません。

 ですが、3人は栗村アイリのためにセムラを奪い取ってきました。価値がないと思っていた自分のために、停学や廃部のリスクを覚悟してまでさほど重要ではないセムラを強奪してきました。

 この友情は、椎名ツムギもたいへん気に入るフィナーレでしたが、ただ一つ彼女はテーマについての懸念がありました。

 けれどこれは、先生とナツが同じ結論に至っています。そしてこれは、リンちゃんが埋めた二つ目の古則「理解できない他人を通じて、己の理解を得ることができるのか」に対する連邦生徒会長の結論の応用例でもあります。

 リンちゃんが埋めた二つ目の古則は、他者の心は理解できないものだということを前提にしています。字義通りに読んだ場合楽園の存在証明は不可能である、という立場です。そのうえで、そんな他者を通じてたがいの理解を得ることができるか問うているのです。

 ナツの言葉はそのより高度な応用です。自身の中に眼をふさいでしまいたいと思うものを見出したとき、ナツが促すのはまず自分自身を含めた環境を見ることです。つまり、自分の中にそのようなものを見出したとき、「それ」は本当に存在するのか、存在するとしても重大性を見誤っていないか周囲に照らして一度検証してみようと促しているのです。

 これは、タイミングが重要でした。アイリは元々3人が自分を見捨てるような性格ではないと頭ではわかっていたからです。つまり、タイミングによってはわかりきったことを繰り返されることにしかなりません。

 ですが、放課後スイーツ物語のときもそうですがナツはタイミングを読んで動く子です。完全な誤解でこれ以上ないほどの3人からのアイリへの想いを証明した直後にこれをぶつけるから意味があるのです。頭ではわかっていてもどうしても心の底で疑ってしまうものを、疑いようがないと実証してから突きつけてくるからこそなのです。そのときにならなければわからない、あのときに言っても意味はない、という話はすでにその放課後スイーツ物語でなされているところです。

 そして、これはツムギも同調する態度です。彼女は評価を焦るアイリに言葉を贈っていますが、現時点での効用についてはあまり意味がないだろうと判断し、ただ覚えておくようにと念押しして忠言しています。そのときになって、後から効けばよいわけです。

 栗村アイリの悩みはとても等身大のもので、だからこそ深刻です。ただ、ヨシミ・ナツ・カズサの3人のアイリへ向ける想いは強く、そして先生・ナツ・ツムギの3人は頼もしすぎました。輪の中にナツが、それを見守るように先生が、さらに今回の骨子となる音楽のフィールドでツムギが支えています。

 冒頭の問いはアイリに諾否を迫ります。そのままでいいのか、悪いのか。その2択へのアイリの答えはどちらでもありませんでした。

 それがツムギの危惧したただの先送りになっていないことは、ナツとの問答がこれ以上なくはっきりと示しています。

 みんなが好きで、みんなも好いてくれているとわかっているからこそ自己嫌悪してしまう。そんな状態から、みんなが好きな自分が好きへと至る。言葉だけなら、前提が何も変わっていないように見えます。けれど、3人が必死につかみ取った単なる誤解の塊である一握にすら満たない、屑のようなセムラが確かなものを伝えています。

 聡いナツでもなく、誰よりもアイリを見ているカズサでもなく、ヨシミが口にした言葉があまりにも端的にアイリの「環境」を示しています。

 アイリが言っているのは「変なこと」なのです。間違っているとか、視野狭窄とかではなく「変なこと」なのです。アイリの認識している事実が正しいとか、間違っているとか、そういう問題ではないのです。アイリのミスで演奏が止まることや、メンバー各人に対しイラッとすることはそもそも「放課後スイーツ部では大した問題ではない」のです。

 放課後スイーツ部はある程度ピーキーな部活です。ヨシミとカズサは常に煽り合っていますし、ナツはキャスパリーグを擦りまくって物理で応報されます。特に放課後スイーツ物語の初お披露目の際には、その極めて高い評価とともに自分にはこの関係性は受け入れがたいとする人も散見されたほどです。放課後スイーツ部のメンバーはわざわざ相手が嫌がることをして煽り、煽り返されるかぶん殴られるかするコミュニケーションをじゃれあいとして日常化しています。最も煽られる杏山カズサ本人が放課後スイーツ部所属であることを、モモトークに明示するほどおそらく誰よりも強く愛しています。今回も腕にわざわざ3人の色をぶら下げているほどです。

 やたら研ぎ澄まされた言葉のナイフと拳が飛び交う放課後スイーツ部で、特に悪意なくミスったところで、あるいは誰かに対しイラついたところで、そんなことは誰もあんまり気にしないのです。アイリが何か問題を起こしているという認識が完全に欠落しているので、アイリの悩みの根本に全く気づけないほどです。杏山カズサに至っては自分もかつてひとつの相談を先生にしたにも関わらず、アイリの悩みに全く気づけなかったことを謝るくらいです。完全に栗村アイリにやられている杏山カズサがこの悩みに気づくのは無理でしょう。彼女にとってアイリとは自分の人生を完全に変えた少女であり、今カズサが放課後スイーツ部にいるのは栗村アイリを見てしまったからです。おそらくこの世で一番栗村アイリに脳をやられているので、栗村アイリの自信喪失に杏山カズサが気づくのはあまりにも難しすぎます。カズサにとってアイリは価値がありすぎるからです。

 そもそも日常的に殴り合っているのが放課後スイーツ部。そして3人はアイリが好き過ぎてアイリに取り柄がなくてどうこうという発想にすら至れない。たとえアイリが自罰の果てにふと部員のことを悪く思ってしまったとしても、そんなことは煽り合い殴り合っているヨシミ・カズサ・ナツにとってはよくあることであり、放課後スイーツ部において相手がムカつくのはいつものことなので、お前ムカつくと示したところで誰も気にしません。確かにアイリのような気持ちに陥ることはあるかもしれない、むしろ放課後スイーツ部においてはよくあることなのですが、よくあることだからこそ放課後スイーツ部でそんなことを気にするのは変です。この「環境」を自分自身を含めて確かな証拠とともに把握したとき、椎名ツムギが最も望んでいたフィナーレが訪れることは当然のことなのかもしれません。

 だからこそ、栗村アイリは何者かという問いはについては、これだという答えも、虚構する演技もはっきりと明示する必要ないのです。なぜなら、「もう大丈夫」だからです。敢えて言えば彼女は「伝説」の一員になりますが、かつての彼女が求めた名声は、もはや重要なことではないでしょう。


余話:椎名ツムギという女

 椎名ツムギという女は滅茶苦茶おもしれーです。もちろん彼女を単体で見た場合もそうですが、対比したとき彼女の面白さは浮き彫りになります。たとえば七囚人清澄アキラがそれです。

 アキラは呼び名は他者に規定されるものだと述べ、慈愛の怪盗を受け入れました。盗人であり、咎人であり、バケモノであることを認めています。

 一方で品のない呼び方をされることは嫌い、また自身の名を告げることは仮面の下に属するものとして慎重・大切に扱っています。

 一方のツムギの自己紹介は無茶苦茶です。

 彼女は自らを「眠れる森の姫」であると述べ、さらに何の躊躇もなく自らの名を明かします。ここまではまだアキラと比較する必要のない変な人で済むのですが、そこからはかなり奇妙な方向に走ります。

 姫に続けて、魔王、スパイと突拍子のない形容を積極的に認めてくるのです。さらに彼女の攪乱は続きます。

 ここは森ではなく、自分は姫でもない。つまり自分は「眠れる森の姫」だと述べておきながらそれを裏付ける証拠を否定しているのです。アキラの場合、その評価はその行いに紐付いています。つまり、アキラが何故そう他者に規定されるのかが明白です。彼女は窃盗をしているから怪盗なのです。

 アキラは自分の名前を仮面の下に隠しながら、他者に規定された「慈愛の怪盗」を花火として打ち上げるほど常用しています。

 ツムギは自分の名前をあっさり明かしながら、ツムギとは何者かを攪乱します。形容する言葉の例を挙げながら、そのどれにも根拠がありません。好きに呼べばよいとしながら、どう呼ぶのが適切なのかわからないのです。結局のところ、何も分からないながら名前を呼ぶのが一番使いやすいでしょう。

 また、彼女はその語り口からゲマトリアを引き合いに出されることをよく見ますが、私はかなり異なる考え方の持ち主ではないかと見ています。

 今回のツムギは「物語」と「解釈」を頻用していたので、特に引き合いに出すべきはゴルコンダ(芸術を扱うマエストロでなく)でしょう。たとえばゴルコンダとツムギでは明確に趣味が違います。ゴルコンダはエデン条約編の友情で苦難を乗り越え、努力で打ち勝つ物語を望んでいたものではないと評しています。

 一方で、ツムギの趣味はまさにそのものです。

 これだけなら、趣味の違うゲマトリアと言うこともできるでしょう。しかし、彼女はゲマトリアのそもそもの在り方に興味を示していません。ゲマトリアとは何かについては、黒服がはっきりと語っています。

 ゲマトリアとは観察者であり、探求者であり、研究者です。地下生活者もその求道に言及していることから、コデックスが変更される前から元来のゲマトリアの姿勢とはそのようなものであることでしょう。彼らは各々の探求において世界観を持ち、その観点から観察・探求・研究を行っています。たとえばゴルコンダは初登場時に自らの世界観をはっきりと開示しています。

 これは死という敗北を決定づけられたボードゲームを通して攻略法を組み立て、その過程から求道を行っている地下生活者などからも窺い知ることができるでしょう。彼らが行っていることは自らの世界観に基礎付けられた探求です。

 マエストロの場合、それを芸術家として表現します。彼は芸術家としての成果を概念の説明からはじめやや興奮して先生に披露し、喝采を求めます。マエストロが先生を好ましく思っているのは、先生がその理解者になってくれるかもしれないからです。

 一方のツムギは重点の置き方が全く違います。

 彼女がわざわざ一拍おいてキメ顔で重要視しているのは「エモーション」や「ムード」です。この「エモーション」はもちろんマエストロが言うところの「根源の感情」やそのミメシスなどとは全く関係ないでしょう。そのことは、彼女が初登場時の第一声で指摘した「エモ」に端的にあらわれています。

 彼女は良い感じの空気と気分で、きちんと当初の問題がないがしろにされることなく処理されて終わることをよしとしています。また、それを単に読者として読んでいる、あるいはプレイヤーとして手を打っているのではなく、自ら役者として参与しています。さらに、探求の成果や仮説の検証として作品を提出するのではなく、物語に花を添えるためにそれを差し出し、さらに詞はヒロインに任せるとしてあずけます。

 つまり、ゲマトリアの「世界観」「研究開発」「成果物」といったものはツムギとはリンクしないのです。根本的な姿勢がゲマトリアとは異なるのです。「物語」や「解釈」といったワードから特にゴルコンダを、ワイルドハントの生徒ということから特にマエストロを想起しやすいところ、探求・芸術的姿勢がゲマトリア的ではないのです。

 そして、最もわかりやすい点は彼女の音楽に対する姿勢でしょう。かっこつけたところのない柔らかな笑顔で彼女の告げる音楽に対する向き合い方は、求道を旨とするゲマトリアとは、あまりにもかけ離れているのですから。

無念:語り尽くせず

 栗村アイリに長々と、余話として椎名ツムギについて少々、その魅力に打ちのめされた雑感を綴りましたが、この両名に限ってもまるで書き足りない気分です。伊原木ヨシミ、柚鳥ナツ、杏山カズサ、先生についてもこれと同じだけの熱量でいくらでも語れます。後日談で匂わされ、ミニゲームでダイレクトアタックしてきた宇沢レイサもです。

 ストーリーそのものを放課後スイーツ物語やどたばたシスター(特にイット・サーヴズ・ユー・ライト)などと絡めて早口になりたいところでもあるのですが、本当に無限にやれてしまうので措きます。

 エンディングのムービーが本人達だけの練習風景だったときの最高感とか無限に述べ散らかしたいですが、わかれわかってくれと念だけ送ります。念を送るまでもないでしょう。

 蒸しパン4つの場面に先生が入れないのはどういうことですかという私とこの空間に先生を入れてはならないという私が殺し合っていますがこの地獄も割愛します。

 ですが、最後に言わせてください。

 #A-04なんですかこれ? 聞いてないっすよこんなの。

 いや、クリスマスとかで薄々感じてはいたんすけど……でもですね……

 聞いてないですよ僕はこんなの!!!!!!!!

 アイリもらえるの!? このイベの内容で!? おかしくないですか!?!

 書き尽くせないのですが、アイリのこの表情を見ていると、大丈夫なんだなって気持ちでいっぱいになって幸福なのでこのあたりで筆を置きます。

 最後に僕は雑食なので、と今回のイベ関連で大好きなカプを列挙しようと思ったのですがそれだけで複数行に渡ったので諦めます。供給をお願いします。助かる命があります。

 アイリが大丈夫なので今度こそおしまいにします。放課後スイーツ部も放課後スイーツ団もシュガーラッシュも大好きです。本当に、本当によかった……

 栗村アイリ、#A-04何……?


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